第16話 素敵な夜
「もえさん、素敵な夜をありがとうございました。とても楽しかったです」
「そ、それはどうも」
言葉だけならデート後のやり取りとしても成立しそうな会話だが、私たちが歩いているのは単なる下町の商店街である。
しかもその「素敵な夜」とやらは、鉄工所でお酒を飲んだあとバーベルの写真を撮って喜んだという、おかしなひとときだ。大部分の時間で相手をしたのも、私ではなくスキンヘッドのいかついおっさんだし。
……この人、女の子とデートしたこととかあるのかしら?
自分のことを棚に上げて失礼極まりない感想を抱きそうになったが、ふたたび嬉しそうにこちらを振り返られたので、さいわいにも思考は中断された。
「お父さんも素晴らしい方ですね」
「そうですか? いつもあんなですけどね」
苦笑こそしたものの、悪い気はしなかった。外見はともかく、私も父を心から尊敬しているからだ。見た目や言動から「豪放磊落」という言葉がぴったりな人だけど、駄目なものは駄目、と頑固に筋を通すところがある一方で、相手の気持ちを常に推し測る優しさも持ち合わせていて、なんと言うか一本筋が通っている人なのだ。
だからなのか、私には反抗期のようなものがほとんどなかった。また、見た目的には完全な「美女と野獣」だった亡き母が周囲の反対を押し切って嫁いできたというのも、今では理解できる気がしている。
「もえさんが美しいお嬢さんに育ったわけが、ちょっとだけわかりました」
「……ありがとうございます」
またしても、ちょっと顔が赤くなってしまった。夜道で助かった。
同じように芯が通っている……かもしれない、と今夜少しだけ見直すことになった深身先生の顔は、けれども父とはまるで正反対の柔らかい微笑をたたえている。しかもその父につき合って結構な量のビールを飲んだはずなのに、顔色はまったく変わっていない。見かけによらず、お酒に強いのかもしれない。
ちなみに私はアルコールはまったく駄目で、二十歳になったのを機にビールを一杯飲んでみただけで引っくり返ってしまったほどだ。
「『クロキ・スポーツクラブ』での勤務は楽しいですか?」
「え?」
突然話を変えられて、少し面食らった。
「え、ええ。もともとジムでバイトしたいと思ってましたから。社員さんもいい人たちばっかりですよ。ちょっと癖はあるけど。あ、もちろんちゃんと調査はしてます。スタッフや会員さんに、引き続きそれとなくそういう話題を振ってみたりとか」
「ちょっと癖がある?」
先生は答えの前半部分が気になったらしい。微笑を浮かべたままながら、縁なし眼鏡の奥で少し瞳が動いた。
「ちなみに、どんな癖ですか?」
「あ、癖があるって言っても変な人たちじゃないです。いや、変って言えば変か。でも先生ほどじゃ――」
「もえさん」
冗談めかそうとしたところで、諭すように先を促された。いつもが柔らかすぎるくらい柔らかい印象だけに珍しい。
「すみません。でも本当に、大した意味じゃないんです。チーフトレーナーの山川さんはオネエ言葉のボディビルダーで、フロントチーフの羽佐間カレンさんはダブルだけど中身はバリバリの日本人。用務員のタマさんは面倒見はいいけど、どこかすっとぼけてるおじいさんって感じで、なんていうかみんなキャラが濃いっていうか」
「ああ、なるほど。そういうことですか」
深身先生は小さく笑った。いつの間にか普段の優しい表情に戻っている。なんだったのだろう。
「失礼しました。大事なもえさんに、何かあったら大変ですからね」
いい加減に慣れてきたつもりだけど、やはり面と向かって言われるとリアクションに困ってしまう。こういうときは大事な「アシスタント」と、しっかりつけ加えて欲しい。こっちは純情な(?)乙女なのだ。
ルックスだけはいいんだから、ちょっとは自覚しなさいよ……。
いつものように内心でぼやきつつ、「ありがとうございます」とこれまたいつものシンプルな返事を返して、私たちは並んで商店街を歩き続けた。
その後も深身先生が『クロキ・スポーツクラブ』の様子、特にさっき私から聞かされた他のスタッフのキャラクターや、普段の仕事ぶりについて熱心に質問してくるので答えていると、すぐ駅に着いてしまった。
「今日は本当にありがとうございました。突然お邪魔してしまったにもかかわらず」
「急だったからびっくりしましたよ。今度はちゃんと、事前に教えてくださいね」
「はは、失礼しました。でも貴重なバーベルを取材できて嬉しかったです。それに、もえさんを素敵な女性に育てられた素敵なお父さんにも会えて」
「ど、どうも」
だから、天然イケメン台詞はやめなさいってば。
また顔が赤くなっていないだろうか、と気にしながら、私は表情をごまかすように頭を下げた。
もとの姿勢にもどったときにはもう、深身先生は優しい笑顔で手を振り改札を抜けていくところだった。




