第11話 フィットネスクラブの現実
「早坂さん、あとでベンチプレスの補助、お願いできる?」
「はい、かしこまりました!」
『クロキ・スポーツクラブ』にジムスタッフとして勤務し始めてまだ一ヶ月ほどだが、私には度々、そんな声がかかるようになっていた。
トレーニング経験があるだけでなく、フィットネスクラブという場所そのものに慣れている雰囲気は、お客さんもすぐに感じ取ってくれるものらしい。しかも心配していたボディビル・ジムのようなクラブではまったくなく、会員の七割方が女性で、ほとんどは近隣の主婦やOLとのことだ。
そうなると必然的に「今度入ったあの若い女の子、いいわよ」だの、「自分でも休み時間に、ちゃんとトレーニングしてるみたい」といった噂が広まって、私にトレーニングの補助を頼んだりフォームを見てもらいたがる常連さんが、すぐに何人も現れた。
「さすがねえ、もえちゃん。なんならこのまま、パーソナルも始めてみれば?」
ゲイであることを公言しているチーフトレーナーの社員、山川さんからはそんな勧めも受けたが、そこは丁重にお断りした。簡単な補助やフォームのチェックくらいならまだしもパーソナル、すなわちパーソナルトレーナーなど私にできるわけがない。
相手が抱える身体の癖などを見抜きつつ、オーダーメイドのトレーニングプログラムを作って指導するのがパーソナルトレーナーである。昔は一部の芸能人やトップアスリートだけのものというイメージだったが、今ではこうして一般のフィットネスクラブでも普通に活動するようになった。
もちろん別料金がかかるけれど、スタッフが素人のアルバイトだらけで、下手をすればお客さんのほうがトレーニングに詳しいような大部分のクラブでは、やはり専門家の存在は貴重だ。
実際『クロキ・スポーツクラブ』でも山川さんが行っているし、他にも外部から五、六名のパーソナルトレーナーさんが出入りしているようだった。ジム内の掲示板にもプロフィールや指導料金とともに、やたらと爽やかな顔写真がずらりと並んでいる。
「でもほんと、もったいないわねえ。これだけ動けるのに。特にあのスクワット! 女同士だけど惚れ惚れしちゃうわ。Aカップだけど胸自体はしっかり張ってるし、お尻もキュッと出てて」
「な、なんで知ってるんですか!?」
色々とつっこみどころ満載の山川さんの台詞だったが、つっこむ以前に後半のひとことで、私は激しく動揺させられてしまった。
「あら、そんなの見りゃ大体わかるわよ。ついでにサイズは、おそらく七十――」
「ストップ!! それ以上言わないで下さいっ!」
営業終了後の休憩室で助かった。悪い人ではないのだけど、堂々とオネエ言葉を使うこのチーフは、ジム内でも似たようなことを平気で言い出しかねない。
ちなみに「女同士」と言ってはいるものの、山川さんは遺伝子通りに(?)男性部門で出場するバリバリのボディビルダー、しかも都大会で優勝して『ミスター東京』の称号を得るほどの選手だそうだ。分厚い身体に小麦色を通り越してエスプレッソ色になった肌、そして笑顔から覗く白い歯は、歯磨き粉のCMオファーがきそうな眩しさである。夜道で出会ったら絶対、白目と歯だけが浮いて見えることだろう。
「あら、もえちゃん、Aカップなの?」
扉が開く音とともに、今度は背後から、今日のおやつについて語るような軽い声が聞こえてきた。
「もうちょっと、おっぱいあるかと思ってたけど。まあ言われてみればそんなもんかしらね。姿勢がいいと、やっぱ実際より大きく見えるのね」
振り向くと目鼻立ちのはっきりした綺麗な女性が、ユニフォームの裾を引っ張りながら、のんびり部屋に入ってくるところだった。私とは対照的に、パツンパツンのポロシャツの内側で豊満なバストが揺れている。
「……勘弁してください、カレンさんまで」
フロントチーフの羽佐間カレンさんはブラジル人とのハーフだそうで、くっきりした顔とモデルばりのスタイルをした典型的なラテン美女だ。もちろん会員さんにもファンが多い。ただし、ほぼ完全な日本育ちのため外国語はまったく喋れないらしく、「この顔、フェイクだから」とみずからネタにしている。
「そうなのよ、カレンちゃん。この子、姿勢も凄くいいでしょ。しかも黙ってれば美人だから、パーソナルやれば絶対人気が出ると思うんだけど。あんたみたいに巨乳で濃い顔よりも、貧乳だけど健康スポーツ少女ってキャラのほうが、こういう場所では売りになるし」
「うっさいわね! でもたしかに、フロントでもたまに言われるわ。あの新しいお姉さん、話すと意外にいいねって。もえちゃん、試しにやってみれば? すぐにご指名かかるんじゃないかしら」
まるで水商売のスカウトだ。しかも、もろに「貧乳」呼ばわりはおろか「黙ってれば」だの「意外に」だの、言いたい放題である。
「結構ですってば。それに私、トレーナーの勉強なんてしたことないですから、本物のトレーナーさんたちに怒られちゃいますよ」
あらためて断ったが、言葉の後半にはちょっとだけ本音も入っていた。
私も人のことを言えた義理ではないけれど、フィットネスクラブという場所は単なる学生アルバイトやフリーター、それもひどい場合は自身も運動不足の人間が、「トレーナー」だの「インストラクター」だのと書かれた名札をぶら下げている場合が本当に多い。
ジムだけでなくフロントも同様で、本来はお客さんと最初に接する、言わばクラブの顔たる部署なのに、まともな電話応対一つできないような若者が居酒屋やコンビニのアルバイト感覚で応募してきて、しかもそれを採用してしまっている。
「フィットネス業界はまだまだブラック業界なのよ」と前のバイト先ではフロントチーフがいつも怒っていて、私もみっちり研修を受けてから現場に出された。
『クロキ・スポーツクラブ』も同じく頑張ってはいるようだが、それでも私ごときが「トレーナー」なんて名札に書いてあるのだから、やはり申し訳ない気持ちになる。
せめてもと思い、マシンの使い方や簡単なフォームのチェック程度はするものの、トレーニングプログラムを作ったり栄養指導をしたりというような、まさにトレーナーの仕事に関しては、山川さんやパーソナルトレーナーさんを紹介して任せるようにしている。というか、そもそもそんな知識や技量もないわけだから当然だ。
「あ、そういえば……」
チーフ社員が二人揃ったのに気づいた私は、言葉を選びながら問いかけた。
「このクラブって、できてから何年くらい経つんですか?」
「え? 三、四十年は経ってるんじゃないかしら」
「そうね。たしか一九八〇年の設立よ」
さすがは社員というべきか、二人ともすぐに答えてくれた。
さて、ここからどう話を進めよう。すでに勤務自体が楽しくなってしまっているが、言うまでもなく『クロキ・スポーツクラブ』での本来の目的は、三島由紀夫のトレーニングノートを探すことである。
しかし、二人がその在り処を知っているかどうかはわからない。そもそも深身先生のクライアントさんは信じているらしいが、本当にこのクラブにそんな物があるのだという、確証だってない。
「じゃあ、その頃からの会員さんとかも?」
「うん、いらっしゃるわよ。いつも昼にいらしてる、徳田さんとか上田さんなんかはそうね。会員番号も一桁だし。当時はエアロビブームだったから、レオタード姿で踊りまくってたらしいわ」
カレンさんが言うその二人には、私も何度も会ったことがあった。やたらと元気のいいおばあさん二人組で、マシンの使い方なども熟知しており、いつも楽しそうにトレーニングしてくれている。
「へえ。なら、お二人のトレーニング記録とかは、膨大な数になってるんでしょうね」
我ながら上手い話の繋ぎ方だと、内心ほくそ笑む。このままさり気なく、三島由紀夫のノートの話に持っていければ……。
……と思ったが、やはり簡単にはいかなかった。




