第9話 イケメンしか合ってない!
冗談じゃない。
たしかにトレーニングは嫌いじゃないけど、それはあくまでも「バスケットボール部の女子大生」として好きなレベルだ。二の腕がパンパンでTシャツなのにポロシャツみたいになっているおっさんや、なぜか腿まわりだけ異様にゆったりしているパンツ(バギーパンツというのだと、あとで深身先生が教えてくれた)で、のっしのっしと歩く日焼けしたお兄さんたちがいるようなジムは願い下げである。
こう見えても、私はか弱い乙女なのだ。
「安心して下さい。さすがに三島由紀夫が通っていた当時のジムは、もうありません。現在はオーナーが変わって、一般的なフィットネスクラブになっています」
文字通り安心させるように微笑んで、深身先生は続けた。
「自由が丘にある、その『クロキ・スポーツクラブ』のジムスタッフとして、潜入して欲しいんです」
「なるほど……って、ん?」
またしても、気になる一言があった。
「潜入?」
「はい」
相変わらずへらりと笑っている我が雇い主に、私は慌てて確認した。
「いやいやいや! ちょっと待ってください、なんで潜入する必要があるんですか? 素直に、こちらに三島由紀夫のトレーニングノートが残っていると伺ったんですが、とか聞けばいいじゃないですか。ていうかよく考えたら、そもそもスタッフになる必然性もありませんよね」
「よく気づきましたねえ、さすがは我が親愛なる――」
「説明してください! そして“親愛”はいらん!」
ぴしゃりと遮って、狭いテーブルに身を乗り出す。やはり、どうにもうさんくさいアルバイトだ。
「ははは、恐れ入りました。実はですね――」
何が恐れ入ったのかはわからないが、つまり、こういうことらしい。
当初、深身先生はいたって正攻法、まさに私が言った通りの台詞で、「こちらに三島由紀夫のトレーニングノートが残されている、と伺ったのですが」と問い合わせたそうだ。が、電話ではあっさりと「聞いたこともないですね」と断られた。
諦めきれずに直接その『クロキ・スポーツクラブ』に出向いたものの、うさんくさい風体と言動から余計に心証を悪くしてしまい、「だからそんな貴重な物が、うちにあるわけないでしょう! お引取りください!」とすげなく追い払われてしまったのだという。
「……先生、どうせだらしない格好で行ったんでしょう。ネクタイの一つも締めないで、あのよれよれのジャケットで」
「あれ? どうしてわかるんです?」
追い払われる様子が目に浮かぶようである。ちょっと身だしなみに気をつければ、素材は悪くないのに。……って、そんなことはどうでもいい。ようするに深身先生自身が墓穴を掘ったことにより、アシスタントを雇って潜入調査をしなければならなくなったというわけだ。
でも。
「一度断られたのにわざわざ出向いたってことは、やっぱりその『クロキ・スポーツクラブ』に、三島由紀夫のノートがあるってことですか?」
私は残ったカプチーノを飲み干しながら、首を傾げた。
先方が本当に知らないのか、それともなんらかの理由で隠しているのかはわからないが、普通は知らないと言われたら、そこで大人しく引き下がるだろう。それを二度目、しかもわざわざ直接出向いたということは、やはり深身先生にはそこに三島由紀夫のノートがあるという、なんらかの確信があるのではないか。
「さすが我がアシスタント。その通りです」
親愛なる、のまくら言葉がなかったのでつっこむ隙がなかった。いや、アシスタントになったのはたしかだけど。
「そもそも今回の一件は、クライアントさんのほうから直々に、『クロキ・スポーツクラブ』に三島由紀夫のトレーニングノートが残されているはずだから調べてほしい、と言ってきたんです」
「クライアント?」
「ええ。日本語にすると依頼主ですね」
「知ってます」
馬鹿にしているのではなく、単なる天然なのだということはわかっているけれど、少しだけむっとしながら私は答えた。さっきほんの少しだけでも、(素材はいいのに)などと思ったことも心のなかで撤回しておく。
「じゃあそのクライアントさんは、三島由紀夫に縁があるか、よっぽど詳しい人なんですか?」
「そんなところです」
「ふーん」
頷きながら「ちなみに、どんな方なんですか?」と聞こうとした私は、あることを思い出してポンと手を叩いた。
「そうだ!」
「どうしました?」
深身先生はきょとんとして、眼鏡の奥の目を丸くしている。
(あら、意外にかわいい顔)と一瞬思いながら、私は後輩のアカネちゃんから聞いた話を伝えた。
「そういうの専門の、探偵さんがいるらしいですよ」
「探偵?」
「ええ。スポーツとかトレーニング専門の探偵さんで、探し物を必ず見つけてくれるらしいんです」
「ほう」
「後輩の彼氏さんがトレーナーなんですけど、業界ではかなり知られているって」
「ほほう」
いつの間にか先生の顔は、いつものにこやかな微笑に戻っている。
「しかもイケメンで、格好いいそうです」
「なるほど。ありがとうございます」
「自分もトレーニング好きで、しかもどこの大学の図書館も顔パスできるぐらい、凄い人だって――」
流れのままに「その人を探して、頼んでみればいいんじゃないですか?」と続けようとした私の口が、半開きのまま固まった。
「――先生、今、なんて?」
「はい?」
「いや、その探偵さんがイケメンで格好いい、ってあたしが言ったあと……」
「ああ。ありがとうございます、って言いました」
さらに大きく笑い、深身先生は答えた。まさか――。
「ところで、もえさん」
ますます楽しそうに続けられる。いや、だって――。
「その格好いい探偵さんって」
あたしが聞いたのは、イケメンでトレーニング好きで大学の図書館も顔パスの、知る人ぞ知る有名な探偵さんで――。
「なんていう人ですか?」
まさかこんな、天然セクハラ変人講師なわけがない。ていうか――。
「イケメンの部分しか合ってないじゃない!」
不覚にも「黙っていれば」の注釈を付けるのすら忘れて、しかも声に出してしまったのにも気づかず、私は重ねて訊いた。
「先生が、『フィットネス・ハンター』!?」




