春を待つ童話
携帯からの投稿なので後で色々直しますね
僕と彼女が出会ったのは、身体の弱い彼女が、空気の綺麗な僕の町に移り住んで来た時だったよ。
白い大きな御屋敷から聴こえて来るショパンのエチュードに、心が震えてその場から動けなかったのを良く覚えているよ。
僕の通っていた小学校ではピアノは中々触れなかったからね、オルガンの音に慣れていた僕にとっては、まるで魔法の音色だったんだよ。
来る日も来る日も彼女の御屋敷から聴こえて来るショパンやツェルニーに魅せられて、彼女の家の窓の下にうずくまる様にして聴いていたんだ。
ある日傘をさしてピアノを聴いていた僕を見て、呆れた彼女のお母さんに練習室に放り込まれた時に、勝気な彼女にジロリと睨まれたのを覚えているよ。
彼女は睨んでないって怒っていたけどね。
初めて触った鍵盤の艶やかな肌触りと、思っていたよりも重いタッチに僕の胸は高鳴り、彼女も呆れていたよ。
小学校の音楽室に特別に入れてもらい、毎日練習曲を弾いたものさ、負けん気の強い彼女も単調な練習曲を嫌っていたけれど、僕に負けじと毎日弾いていたよ。
彼女には内緒だけど僕は単調な練習曲が大好きでね、全く苦痛じゃなかったのさ。
でもね、初めてスカルラッティのソナタを通しで弾けた時はうれしかったなあ。
今も聴こえて来る様だよ彼女の弾む様なブルグミュラー。
僕の踊る様なチェルニー。
中学生になっても僕と彼女は変わらずにピアノに夢中だったよ、周りのみんなは恋に夢中になっていたけど、僕と彼女はピアノがあれば幸せだったよ。
みんなが恋を語らう様に僕達は連弾を弾いていたからね、放課後に二人が並んで四つの手が奏でるブラームスに、僕達は胸をときめかせ幸せな時を過ごしたよ。
二人で連弾をしている時の彼女は、ミスタッチが多かったから少しは意識していたのかも知れないな、彼女は絶対認めないだろうけどね。
今も聴こえて来る様だよ。
お互いを意識し出したシューベルトの幻想曲。
高校生になった僕と彼女はピアノの奴隷の様だった。
力強く大胆な彼女のピアノは女性らしく優しいタッチに、繊細で優しい僕のピアノは男性らしく力強いタッチに、あの頃の僕達のピアノはコンテストで褒めて貰う為の道具だったんだ。
審査をする顔の知らない誰かが気に入る様に、譜面から目を逸らさずに、偉い人に怒られない様に、ピアノの音がするレコードになる様に頑張ったのさ、彼女も同じ様に頑張っていたけどいつも眉の間にシワを寄せて弾いていたよ、美しいドレスが台無しだったね。
今も聴こえて来る様だよ。
長い階段を登る様なバッハの平均律、彼女の不機嫌なフーガの音色。
僕の自虐的なスケルツォの音色。
高校を卒業して僕は海を渡ったんだ。
あんなに好きだったピアノも辞める気だったのさ。
身体の弱かった彼女は悔しがったね、彼女は海外で自由にピアノを弾きたかったんだね、だけど病弱な身体が許さなかったのさ、僕は彼女を残し海を渡り、表の世界を初めて知ったんだ。
海の向こうはね、何もかもが違うんだ。
文化、空気、色、食べ物、ピアノの音まで違うのさ、僕は自由なピアノを知る事によって更にピアノにのめり込んだよ、楽しかったなあ、もう一度ピアノを日本で学ぼうと思い帰国した時、彼女は病院のベッドの上だった。
元々身体の弱い彼女はピアノに全てを捧げていたのさ、ピアノは捧げるものじゃ無いんだ。共に歩むパートナーなのさ、ピアノで地位と名誉を得るのは大変だけど、ピアノと共に生きる事は難しい事じゃない、ピアノを嫌いになる生き方ではなくて、ピアノを好きになる生き方を教えてあげると、僕は彼女に言ったよ。
彼女が言うにはそれがプロポーズの言葉だったらしいけどね。
今も聞こえてくる様だよ、罪人さえも祝福してくれる様なリストの詩的で宗教的な調べ。
そして僕達は結婚して家庭を持ったよ、とても穏やかで幸せな毎日だったよ、そんなある日彼女は言ったんだ。お腹の中に宝物が出来たってね、とても幸せそうに笑っていたよ。
日々大きくなるお腹と一緒に僕達の幸せも大きくなったよ、そして暖かい春の陽に祝福された様な君が生まれたんだ。
僕と彼女はパパとママになり、幸せな毎日の中心にはいつも君がいたのさ、君を抱きしめる順番を争ってジャンケンまでしたんだよ、パパとママは誰よりも君を愛していたよ、ああ勿論今でもさ、ママは残された僅かな時間を力の限り君の為に費やしていたよ、ママは自分に残された時間を解っていたんだろうね、命懸けでパパと君を愛してくれたんだよ。
君が生まれた日の様な、ある暖かい春の日にママは天国に召されたんだ。
ママは最後まで君を抱きしめて言ってたよ、宝物を授けてくれてありがとう、宝物としてママの下に来てくれてありがとう、ピアノより大事な事を教えてくれてありがとうってね、ピアノより大事ってママが言うなんてよっぽどだね、君が生きてこの世にいる限りパパとママの二重奏……いや、連弾はずっと続いているのさ、いやいや、ピアノと一緒にする訳じゃないよ、君の頭を撫でる時に感じる手触りは、スタインウェイやベーゼンドルファーの鍵盤だって裸足で逃げ出す程の幸福感を僕に与えてくれるさ。
さあ、お話はこれで終わりだよ、そろそろおねむの時間だね、君の寝息を僕に聴かせておくれ、君の寝息は僕にとっての最高の子守唄なのさ、
ああ……聴こえてくる様だよ穏やかで優しいブラームスの子守唄が、幼い彼女と一緒に聞いたモーツァルトの子守唄が……