#1-3 虚妄 - delusion -
# 1-3
マンションのゲートを通り、羽虫が群れる蛍光灯の下でぽっかりと口を開けていたエレベーターに乗り込み、無機質なゴシック体で描かれた「8」という数字を人差し指で押す。この行為を毎日繰り返しているものだから、だんだん僕は自分が工業機械か何かになったのではないかと思えてくる。
エレベーターのドアがすっと静かに閉まると、エレベーターは上昇を始める。エレベーターの窓から見える無機質なコンクリートの景色は、夏場なのにとても冷たく感じた。
上昇を終えたエレベーターは8階で止まり、その扉がまた静かに開く。僕はゆっくりとエレベーターを降りて、自宅へと向かう廊下をしばし歩いた。僕は自宅のドアの前までたどり着いてから、持ち帰る道ほどでぐちゃぐちゃになってしまったバッグの中身をかき分け、自宅の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回した。玄関に入るや否やトントンと小気味の良い音が聞こえる。
「ただいま」
「お帰り」
玄関に入ってすぐ、僕が疲労感を帯びた声色でそう言うと、キッチンの方から母の声が聞こえた。さっき玄関を入った途端に聞こえた音から察するに夕飯の支度をしているのだろうか。
学校で優弥から言われた言葉に深い絶望を味わった僕は、もう誰とも顔を合わせる事なく自室へと向かいたかったのだが、自室へと向かうにはキッチンのあるリビングを通らなくてはいけない為、リビングを通りかかった際母親に声を掛けられてしまった。
「至、明日から夏休みね。家族でどこかいこうか」
「そんな時間ないよ、勉強しなきゃいけないし」
行きたい学校も無い、やりたい勉強も無いのに、同じ年頃の人間が言う「典型的な台詞」を模倣し、つい口に出してしまった。
「そう……。どこか行きたいところがあったら言ってね」
「行きたい場所なんて無いよ」
僕は目を合わす事なく、冷たくそう言った。
この時きっと母はとても悲しい顔をしていたのではないだろうか、僕は一瞬そう思ったが、もはや今の僕にはそれを深く考える余裕は無かった。
思えば家族とも良い関係を築けていなかったように思う
家族にさえもなんとなく接し、あたりさわりの無い言葉で対応してきたという事に気づき、また自己嫌悪が降りかかる。僕はそのままリビングを通り抜け、足早に自室に入った。
沈みかけた夕日の橙色がベランダへ向かう窓から差し込んでいる。高層階から見える景色は夕日の光を受けて真っ黒に影を伸ばしており、さながら黒いプラスティックで出来たミニチュアのように見える。この真っ黒な景色の中には希望なんて存在していないんじゃないかと僕にはそう思えた。
おそらく母が気を遣って整えてくれていたのであろう綺麗なベッドに倒れこんだ僕は、電気もついていない蒸し暑い部屋の中、かすかに聴こえるひぐらしの声に耳を傾けながら目を瞑った。
────優弥が僕に語った「部屋」の話は、本当かもしれない。
今までそんな馬鹿げた事を信じるなんて事無かったのに、この時心の底から「本当かもしれない」と思った。そんな思考を浮かべてしまうほど、優弥から言われた否定の言葉に傷ついていた。
──「………まったくお前はいつもそうだよな」
──「何を話しても興味無さそうだし。お前まだ行きたい学校とかも決まってねえんだろ?」
僕の頭の中であの時の言葉が鮮明に蘇る。
──「そんなんじゃやばいぜ」
──「もうちょっといろんな事に興味を持てよ」
やめてくれ、僕をそんな目で見ないでくれ。
僕はそんな人間じゃない、そんなんじゃない。
──「お前に話した俺が馬鹿だったわ」
見放さないでくれ。
────「じゃあな」
僕は誰かに自分を認めてほしかった。でも、僕には認められる力も、要素も無い。
自分の家族に対しても、クラスメイトに対しても、優弥に対しても……誰にも僕は「本当の自分」を見せた事が無かった。
そもそも、「本当の自分」なんてものが無かったのだ。
死にたい────。
徐々に日の傾く薄闇の中で、僕は無意識にそう呟いていた。
Next -> 15/08/24