表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ワンルーム・ディスコ

作者: 荒木スミシ

ポップで悲しく、美しい恋愛小説です。

   

   ワンルーム・ディスコ


                 荒木スミシ


  1


確かに名前を言った。

テレビで死体遺棄の容疑者として逮捕された俳優の写真が映し出され、その下に確かにテロップが出て、アナウンサーが平凡な名前を言った。俳優の本名だ。私は正直、「彼」が逮捕されたことより、本名を知ったことのほうが驚いた。やっぱり名前、あったんだ。「彼」は幽霊じゃなかったんだ。当たり前だけど。


……杉並署は同署に自首してきた俳優で****、本名、成田ヒロミ、二十八歳、住所不定、を死体遺棄の容疑で逮捕しました。男は犯行を自供し、その証言通り、山梨県前橋市白糸の石川ダムから遺体が発見されたことから、死体遺棄容疑で逮捕となりました。被害者は白いゴルフ・バックに入れられた状態で発見されたとのことです。被害者は石川県下落合市在住の元医師、金子信治さん。被害者と成田容疑者の関係はまだ判明しておりません。逮捕された、****こと、成田ヒロミ容疑者は、俳優として活躍しており、数々の映画、テレビ、舞台作品があるということです。


 テレビのコメンテーターがこういう事件の場合、まず死体遺棄の容疑で逮捕され、よく取り調べた後、殺人の容疑で再逮捕し送検するという手順が一般にとられる、と解説した。ということは彼はやはり殺人を犯したのだろう。

芸能事務所の応接室のソファで冷麺を食べていた私はショックで固まってしまい箸を落とし、それをマネージャーが拾った。マネージャーはこの容疑者と私の熱愛記事が写真週間誌に撮られたことことがあるとか、その関係でしばらく騒いだ。私は、成田ヒロミ、成田ヒロミと心のなかで二十回くらいつぶやいて、また冷麺を食べ始めた。


それから数日間、モデルの仕事をしながらも名前というものについて考えた。

彼の名前を知ってしまったことが私たちの芸能人としての恋の決定的な終焉であり、別れを意味しているように思え、待ち時間にこっそり泣いた。その涙は現実の世界で彼の名前を呼んでみたかったということでもあり、時が過ぎてどこかで偶然すれ違って、今度は「名前のある世界」で、お久しぶり、元気? などと言い合うような夢を一瞬考えたからだった。

でもこれで終わりなのだろう。重なり合った運命の線路はここでもうおしまいなのだ。

仕事からの帰り道、私は事務所の車で帰るのを断って、歩いて家路に向かった。途中、夕暮れ時の公園のベンチに座って草野球をする子供たちを眺めた。じっと見ているとそれはそれで面白かった。エラーとホームランがやたらと多くて点が入ってばかり。仕事が忙しくなってから、景色を見ることの楽しさがよりわかってきたな。退屈に忙しい、というという感じだな。

多忙ななかで退屈を見つけるのが忙しい。雲のカタチを確認しなきゃいけない。わき道の花壇の芽がどれくらい出てきたか確認しなきゃいけない。ベンチにいつもいるご老人のファッションも刺激的だ。この公園からどの方向に歩いて、そして次々に現れる知らない道を右に曲がるか、左に曲がるかで悩む。

うむ、私は退屈に忙しい。

そのタクシーの待ち合わせの列に並んだのも、いつもとは違う方法で帰りたかったからだ。夕方のラッシュ時だったのでかなり長い列になっている。ガムを噛みながら並んでいると、後ろの男が声をかけてきた。サインとかじゃないといいな、と思いながら聞いていると、どうやらお金が足りないらしく、もし一緒の方向に行くのなら相乗りしないか、という提案だった。私は方角を聞いて、一緒だったのでOKした。

二人で乗っていると運転手が、私のことを、彼女さん、と呼ぶので彼はちょっとバツが悪そうにウインクした。ウインクを謝罪に使う人なんて珍しいな。別にいいのに。タクシーの運転手さんに勘違いされることくらいちょっとユニークな体験だ。私は、そうなんです、でもこの人浮気性なんですよ、と言うと、運転手はしばらく真剣に男を叱った。

それが一段落した頃ふと、お名前教えてください、と私は訊いた。ただ単に「名前」というものに私は妙に敏感になっていたのだと思う。

「成田ヒロミ」

「え? どんな字ですか?」

「成田空港の成田に、カタカナでヒロミ」

「そうですか」

 同乗者が彼と同じ名前である偶然。名前を聞いた後、私があまりにも喋らなくなったので、彼は、どうしたの、と訊いた。

「いえ、なんでもないわ」

「君は? 名前は?」

 私が名乗っても彼は、ふーん、と頷くだけだったので安心した。どうやら彼は私のことを知らないらしい。もちろん知らなくていい。じっと彼の横顔を見る。チラチラとビルの窓や対向車線の車の窓に夕陽が映りこんで眩しい。ぜんぜん似ていないし、普通のどこにでもいるような男の人だ。格好もスーツ姿。趣味の悪いネクタイ。

「お名刺いただけないですか?」

「俺の名刺?」

「そう。名前が書いてある紙のこと」

「知ってるけど」

 彼は財布のなかの名刺を探し始める。けれど見つからない。謝る彼に、いいですよ、ごめんなさい、と微笑んだ。この時の私はただ記念が欲しかっただけだと思う。だから彼が、家にある、と言っただけで、彼のマンションの近くで一緒にタクシーを降りたのは軽率だったと思う。軽い女になってしまった。坂道を並んで歩いている時、彼は言った言葉にすぐに応じてしまったのもどうかしていると自分でも思う。

「手でも繋いでみる?」

握った彼の手はひどく冷たかった。


部屋に着いてから貰った名刺に一目惚れした。

成田ヒロミ、という漢字とカタカナの配列。そのフォントや紙質や大きさ。どこからどう見てもなんでもない名刺が私には心の奥に置かれる石みたいに思える。それは存在というものと直結していて、人生の肯定みたいな大きさを感じた。当たり前のことなのかもしれないけれど、複雑に入り組んでわけがわからなくなった存在としての自分の薄さ、が浮き彫りになった。

宅配ピザで夕食を済ませると、私は彼の長くなった髪について言った。

「髪、伸びてるわよ。それとも伸ばしているの?」

「いいや、勝手に伸びた。切るの面倒くせーし」

「じゃ私、切ろうか?」

「今から? ここで?」

「そうだよ。上着脱いでよ。床に新聞敷くから汚れないわ」

「だけどいいの? 髪を切ってもらうなんて始まりなんて、まるでゴールみたいな始まり? あれ? うまく言えないな」

「そう。まるでゴールみたいな始まり」

 彼は私に髪を切ってもらいながら、俺の何がいいの、と訊いた。床に敷いた新聞紙に髪がパラパラと落ちる音が心地いい。

「だってなんの特徴もない男だし、お前、とても綺麗な女だし」

「何がいいのかって? いいわ。教えてあげる」

「何だ?」

「名前よ」

「名前? 別に変わった名前じゃないよ」

「うん。それでいいの。あなたが成田ヒロミであるなら、私それはそれでいいの。だってあなたは成田ヒロミでしょ?」

「そうだよ。俺は成田ヒロミだよ」


そうやって私たちの関係はまるでゴールのように始まった。

道端を横切る猫を見つけるような、なんでもない偶然の出会い。そして私たちはなんでもなく笑い、なんでもなくベッドを共にする。私は抱かれながら彼の名前を何度も呼ぶ。名前を呼ぶ度に濡れていくのがわかる。名前、に抱かれているんだと私は思う。彼も私の名前を呼ぶ。ユメジ、ユメジ、ユメジ。それは確かに今や私の名前ではあるけれど、なんだかわからない感情が芽生えてきて私は抱かれながら少し泣いた。


    2


次の日の朝。

起きるともう彼は出勤していていなかった。ベッドの脇のコーヒー・テーブルの上に鍵とメモが置いてあった。楽しかったよ。帰る時は鍵を掛けて、ポストに入れておいて。君は自分で思っているより、疲れているのかもしれないよ。ちゃんと休みなよ。

改めてこの部屋を落ち着いて見渡してみた。どこにでもあるような小さなワンルームだ。窓からは燦燦と暖かな秋の日差しが入ってきている。

部屋の半分をベッドが占領している。クローゼット、本棚、食器棚、テレビ、デスク、それだけでもう部屋のスペースはいっぱいだ。わずかにある隙間に座椅子が置かれてあって、その隣には週刊誌やファッション誌の山。

小さなキッチンでトーストを焼いて、コーヒーを煎れる。ちゃんと豆もミルもあったから、ドリップして飲んだ。美味しいコーヒー。どこの豆だろう? トーストも美味しい。どこのパン屋だろう? 今日の午前中はスケジュールが入っていないので、この近所を散歩しようかな。

私は彼のTシャツを借りて着ている。アンダーカバーのTシャツだ。それを脱いでベランダの洗濯機のなかに放り込んだ。散らかった自分の服をもぞもぞと掻き集めるとひとつひとつ身に着けていった。その時、ふと私はもうこの部屋とはさよならなのかな、と考えた。もう二度と来ることはないんだろうか。きっとそうだろう。私は同姓同名だということでちょっと浮かれてしまっただけだ。

そこでベッドの枕元に薬の袋が置いてあることに気づく。ちゃんと医者に処方してもらった風邪薬らしく、名前が書かれてある。成田ヒロミ。その名前に少し微笑む。自分のジーンズのポケットから彼に貰った名刺を取り出し、その名前に少し微笑む。そこで私はちょっとしたことを思いつく。この部屋にある名前の印刷してあるものを全部探し出すのだ。私の身体は自然と動き始める。

デスクの引き出しを開け、クローゼッのなかの引き出しを開け、掛かっているスーツのポケットに手を入れ、食器棚の引き出しを点検し、最後には外に出て郵便ポストのなかまで見た。なかなか収穫は多かった。

保険証、銀行通帳、ダイレクト・メール、ガス料金の領収書、電気料金の請求書、住民票まで見つけた。どれにも成田ヒロミ、と印刷されている。それらをベッドにひとつひとつ並べて眺めた。頭の奥が痺れたようになって、それが幸福感であることをしばらく気づかずに座っていた。その名前たちと添い寝したくなって、ベッドの端に私も横になった。名前たちに手を伸ばし、そのひとつひとつの印字を指でなぞっていく。

なんだか悲しくなってきたので、これではいけないと思ってオーディオ・セットのスイッチを入れた。そしたらアンダーワールドの新譜が流れてきて、私は飛び起きて踊った。嬉しくなってだんだん狂ってきた。踊り方なんてめちゃくちゃ。ひとりで歓声もあげた。ベッドの上に乗ってぴょんぴょん飛び跳ねながら踊った。集めた名前たちを両手で掬い、天井に向かって放り投げた。それをシャワーみたいに浴びる。何度もそれを繰り返す。床にも下りてまた踊り狂い、最後には疲れてベッドに倒れて、また眠った。


仕事でも私は名前に敏感になっていった。

ユメジ、と表記されている楽屋、みんなからユメジと呼ばれること、サインを書く時にユメジとやっぱり書くこと。芸能人ならば誰でも思うことなんだろうけれど、人気が出ると名前が勝手に存在感を持ち始める。それについていけなくなる感覚。私の名前は果たして何だったんだろう、と問いかけ直したいような衝動。この名前でなく本当の名前を取り戻すささやかな方法があるのかもしれない。

私は雑誌の表紙モデルの仕事が終わると自然と彼の部屋に足が向いていた。彼が帰ってくるまで、玄関の前で座ってガムを噛んだ。ネームプレートに書かれた成田ヒロミという文字を見上げていた。

この名前なら何時間でも見つめられるな。


彼が帰ってきたのは夜遅くで、酒の臭いがしていた。

私を発見するなり、手を取って、なかに入ってすぐにセックスが始まった。昨夜とは違ってとても荒々しいセックスだった。私は激しく乱れながら彼の名前を呼んだ。彼も私の名前を呼んだ。ユメジ。私は、それは芸名なの、と言った。本当の名前は、コトジ。コトジって何度も囁いて。耳元で何度も囁いて。コトジ、コトジ、コトジ。

その荒々しいセックスが私にとっては儀式のようなものになっていく。私が私であるために必要な儀式。彼が本名を呼ぶ度に気が狂ったような幸福感に包まれていく。私が私として戻っていく。これは名前と名前のセックス。名前と名前の恋。それがわかったのは彼も私に名前を呼ばれることで自分を取り戻していったことを知ったからだ。セックスが終わったあと、彼は私の乳房のラインをなぞりながら言った。

「自分の名前、これまで好きじゃなかった。まるで女みたいだし、親のこと嫌いだし、親からその名前で手紙とか来ると破って捨てていた。彼女とかできても適当なあだ名で呼んでもらった。結局、情けないけれど俺はまだ子供なんだな。自分の親を認められなくて、過去が嫌いで、名前のせいにして嫌っていたんだな。その名前をお前は好きだって言ってくれた。何度も呼んでくれた。そろそろ俺は認めなくちゃならないな」

「何を? 何を認めるの?」

「俺が俺であること」

「私も認めなくちゃならない。私が私であること」

「お前、さっき自分の名前は芸名だとか言ってたな。あんまり自分自身から遠いところまでいくなよ。仕事だからとかいうけどさ、自分の名前を犠牲にするなよ。名前が先に死んじゃうぜ」

「名前が死ぬ?」

「そう肉体より先に名前が死ぬ。そういうこともある。あ、俺、今から親に電話していい?」

「いいよ。どれくらいぶりに電話するの?」

「忘れた。十年は経ってないかなあ。いや、怪しいぞ。俺、今、三十だから、越してるかも」

「いいよ。かけな」

 恥ずかしげもなく私の前で電話番号を押し、親に謝り、次に涙を流しながら笑い、最後には感謝の言葉まで言ってしまう彼のことを優しい人だなと思う。私も自分の親のことを考えた。養母や養父のことも考えた。久しぶりに養母や養父に会いたいな。彼らに育ててもらった時間。繋がりは時間のことでもあるという大切なこと。そして家の周りの風景。またあの道たちを心ゆくまで散歩したいな。

 彼の電話が終わり、私は彼の頬にキスをした。その時、隣の部屋から声が聞こえてきた。隣の部屋で今まさにセックスが行われているのだ。その声を私たちは並んで壁に耳をつけて聞いた。とても激しい誰かのセックス。もしかして私の声も隣に聞こえていたのかな。私が彼の名前を呼ぶ声も、彼が私の名前を呼ぶ声も。

その隣の人のセックスの声はとても愛情に溢れていてとてもよかった。彼はベッドに戻り、激しく声を出して泣いた。私はそばに座ってビールを飲んだ。彼とならあの場所にもう一度戻ってもいいな。そんな気がして言ってみた。本当に実現させる気もなかったけれど、気分転換になればいい。

「ねぇ、今からハンバーガー・ショップつきあってくれない?」


深夜営業のハンバーガー・ショップ。

数ヶ月前、この席で私はあの俳優と初めて待ち合わせた。向かいの空席には絶望が座っていた。でもその席には今、成田ヒロミがいて、眠そうに目を擦りながら私のくだらない話に笑ってくれている。私も成田ヒロミのくだらない話に笑ってあげている。そんななんでもない時間。そんな奇跡のような夜。


  3


朝、起きるとまた彼はもう会社に行っていていなく、またお決まりのようにベッド・サイドのコーヒー・テーブルに上に鍵とメモがあった。

おはよう。お前さ、ひょっとして俺じゃない成田ヒロミって男、好きだった? 付き合ってた? ふとそんな気がしたんだ。もしそうだとしたらこれでお別れにしないか? この二日間、お前はいっぱい俺の名前を呼んでくれたし、俺もいっぱいお前の名前呼んだし、それでもういいよな。本当にありがとうな。お前、ちゃんと幸せになれよなあ。うん。

大きなため息が出て、それから動物のように低く唸った。涙はしばらく出なかった。けれどせめてもの彼への感謝、お詫びだと思って最後に部屋を掃除しようと思った。いろんなところを綺麗に拭いている間に次第に涙が止まらなくなった。次から次から涙が溢れてきてどうしようもない。格好悪いけれど鼻水もいっぱい出てくる。

デスクの隅々まで拭いた。本棚も綺麗に拭いた。食器棚も拭いて、なかの食器も全部洗った。ベッドはシーツを真っ白なものと交換した。窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。布団はベランダに干した。床も拭いた。ユニット・バスに入り、丁寧にバスタブを拭いた。トイレもきちんとピカピカに拭いた。洗面台もピカピカにした。キッチンまわりもすべてピカピカに磨いた。床に積んであった週刊誌やファッション誌はきちんと本棚に戻した。玄関に散らばった靴を一足一足丁寧に靴箱に入れた。クローゼットのスーツやワイシャツをひとつひとつ皺を伸ばしてハンガーに掛けた。

不思議と掃除していると自分の心まで整頓されていくように思えた。部屋を綺麗にすることは、私の心も綺麗にすることなのだろう。だから最後には涙が流れることもすがすがしかった。

部屋を出る時、コーヒー・テーブルの上に貰った名刺をそっと置いた。これがお別れのシルシだ。そうやって私たちのなんでもない二日間は終わることになった。部屋に鍵をかけて、約束どおり郵便ポストのなかに入れる。そこにも名前がある。成田ヒロミ。

さようなら、成田ヒロミ。

私がいっぱい名前を呼んだこと。あなたがいっぱい名前を呼んでくれたこと。あなたがいっぱい涙を流したこと。私がワンルームの部屋で踊り狂ったこと。

私たちの過ごした二日間という時間は、本当は小さな感動の集まりで、それを過ごせたことはたぶんちょっとした奇跡なのだと思う。


事務所に疲れたから明日から休業する、という電話をしたらひどく怒られた。

当たり前だ。けれど無視して携帯を切って、マンションの部屋に帰った。すると芸能仲間の友達がキムチ鍋を作ってくれていて、それを二人で食べた。美味しかった。強く友達を抱きしめた。確かに私はこの友達が好きだ。でも今は探したい、と強い気持ちが誕生する。

探したい。

何を?

友達と別れると、口の辛さがなんとなく私を夜の散歩に連れ出した。夜風が気持ちよく確かに長い散歩になりそうな予感があった。マンションの裏手の小さな公園にいつかの老人が似合わないXガールのTシャツ着て座っているのが見えた。だって老人がXガール。その姿に笑ってしまい、老人に向かって大きく手を振る。でも老人は目が見えないので、私はこの巨大なマンションに向かって手を振っているみたいな気持ちになる。

どこへ向けて私は歩けばいいんだろう? どこへ向けて私は歩きたいのだろう? 

繁華街を歩きながら、深く被っている帽子やサングラスがわずらわしくなって、コンビニエンス・ストアのゴミ箱に捨てた。その姿で歩いていると何人かが私を指差したり、握手を求めてきたり、手を振ってきたりしたけれどすべて無視した。なんだかそんな何もかもが滑稽な芝居のように思えて笑った。

私は私だ、と強く信じて自信を持って前を向いた。その時、たまらない気持ちになった。

私たちのこのへんてこりんな恋愛は神様が与えてくれた試練。本当の名前の人生を生きるということで、自分を取り戻す貴重な練習。とても不思議なことだけど、人は名前をなくすことによって好きな発言ができるようになったり、あるいは自分らしく生きことができたりすることがある。インターネットのなかの世界みたいに。あるいは名前をなくすことによって死ななくてすむようにさえなることもある。自分の痛みを自分の痛みだと思わないことで生き延びる。だから元の自分に戻ることは、また不完全で不器用な自分に戻るだけで幸せとは思えなくなる日がいつか来るのかもしれない。

けれど私の足はどんどん故郷へと向けて歩くことをやめない。心が勝手にそちらに向かうのだ。本能が私の足を止めない。故郷はとても歩いていける場所じゃないことはわかっている。

両親は幼い頃のように私を受け入れてくれるだろうか。私を幼い頃に育ててくれたあの懐かしい人たち。また懐かしいあの街や人は私を受け入れてくれるだろうか。それはもう不可能なところまで私は進んでしまったのだろうか。それでもいい。提案してみよう、と思い携帯電話を取り出した。電話番号が変わっていて通じなかった。それで私は自分自身に向けてのメールを打ち始めた。


コトジへ


今、私は歩いています。

歩きながらこのメールを打っています。

足がどうしてもどこかへ向かっていくのです。

両親と暮らしたあの古い家へと。

電車を乗らずに歩くのは、この一歩一歩が元の自分へ戻る道だと感じたいからだと強く思う。

さようなら成田ヒロミさん。

この名前を呼ぶのもだんだん少なくなっていくのかな。

お前、幸せになれよなあ、うん。

そんなあなたの言葉を抱きしめています。

ありがとう。


送信ボタンを押す。しかし当たり前だけど何度やっても送信エラーになってしまう。それで私はそれであまり周りを見ていなかった。だから暴走をしたダンプカーが大きなクラクションを鳴らしてこちらに向かってくるのも気がつかなかった。

暴走したダンプカーは私を跳ね飛ばすとぐるりと方向転換して止まった。運転手が気絶したのだろう。ずっとクラクションが鳴ったままだ。最初私はしばらく息があった。血がいっぱい流れて、ひどい痛みのはずなのに私はぼんやりとしてしまっていた。死を迎えるその時までなぜだかTシャツについて考えていた。

彼の部屋でセックスのあと、どのTシャツを借りようかとクローゼットのなかの引き出しをあけて必死に悩んだ。あまりにも長い時間悩んでいたのだろうな。彼が呆れて言った。

「どうして借りるTシャツを選ぶだけなのにそんなに真剣なの?」

「Tシャツを選ぶってことは生き方を探すってことだから。今の自分を探しているの」

 

 それが最後に私が考えていたこと。

 Tシャツを真剣に選んでいた私のこと。

 それを笑ってくれたあなたのこと。

 



Tシャツをテーマにした小説を書きたいとずっと思っていました。

 それはTシャツを着るということが、「自分を表現する」ことに近いなあ、と思ってきたから。  荒木スミシ


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ