「読者を必要としない」と「読者を喜ばせる」は、両立する
「読者を必要としない」と「読者を喜ばせる」は、両立する。
昨日、何時間も思考にふけっていて、このような考えが頭に浮かんだ。
これ、一見、矛盾しているようにも思えるかも知れないけれども、実はそうではない。
よ~く考えてみれば、すぐにわかる。この2つは、対立する考えではないからだ。
これが、「読者に読んで欲しい!」と「読者を必要としない」ならば、矛盾するだろう。あるいは、「読者を喜ばせる」と「読者を怒らせる」も、矛盾するかも知れない。
ま、それらでさえも、矛盾しつつも両方同時に存在するコトは可能だろう。人の心というのは、矛盾だらけだからだ。
一方で「フン!読んでくれる人なんて必要ないもんね!」と虚勢を張りつつ、同時に「本当は、読んで欲しいって気持ちもあるんだよ!」とも思っている。これは、矛盾しつつも両立している。
「読者を怒らせつつも、喜ばせる」こういうのだって、現実に成り立つだろう。世の中には、SMなどというプレイがあるが、アレなんて、その代表例だろう。「痛い!苦しい!でも、気持ちいい!!もっとやって!!」ということになる。鞭を打つ方も、打たれる方も、承知の上でプレイしているのだ。
だが、今回は、そういう話ではない。
その辺をちょっと詳しく語っていきたいと思う。
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ここで1つ勘違いしないで欲しいのは、「読者を必要しない」というのと「読者のコトを考えない」というのは、一致しない。別の行為であるということ。
読者のコトを考えながら書くか?そんなモノは完全に無視しながら書くか?それは、どっちでもいい。
たとえば、“アンリ・ルソー”という画家がいるけれども、彼は完全に自分の世界に没頭して絵を描き続けていた。それまでの絵画の常識や手法などを無視して描き続けた。
ま、おかげで、生前はほとんど理解されずに死んでいったのだけど。死後、大絶賛されるようになっていった。
絵の世界だけではない。こんなものは、音楽でも小説でも何でも同じ。こういう人は、何人も存在する。
僕だって同じだ。ある意味で、読者を完全無視した小説を書いてはいるけれども、それは現実世界の読者なのだ。実は、誰よりも読者のコトを考えながら書いているとも言える。自分の中で“理想の読者”を想定し、その人の為に一生懸命になって書き続けている。
この想定している読者を、“普通の読者”に代えて書けば、もっと全然違った作品になっていくだろう。
もちろん、読者のコトを考えながら書いたっていい。
「こういうストーリーにしたら、読んでいる人は喜んでくれるだろうな~」とか「このキャラクターは、ブッ飛んでいておもしろいぞ!きっと、読者もそう思ってくれるだろう」などと考えながら書いたっていい。ただ、実際にそれを読んだ人が、そう思ってくれるとは限らないのだけど。
読者のコトを考えて書くかどうか?
そこの部分は、重要ではない。どちらでもいい。最終的に読者に伝わるかどうか、それとはあまり関係がないのだから。
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「読者を必要としない」
これは、“究極の小説家”になる為の最大の条件の1つだと僕は考えている。読者の反応を意識し過ぎると、自分の作品がブレてしまうからだ。
もちろん、その“ブレ”を利用して書くという手法もある。たとえば、連載マンガ家が、読者の反応を見ながら、その後のストーリーを変えていくという手法。これは、上手くいけば非常におもしろい展開となる。だが、失敗すれば目も当てられない事態となってしまう。
読者や編集者の意見を取り入れ過ぎたがために、作品がムチャクチャになってしまい、何がやりたかったのかサッパリわからなくなってしまった、などというコトは過去に無数に起こっている。
なので、仮に周りの人々の意見を取り入れるにしても、作家自身がシッカリと自分の意志を持って判断しなければならない。
ここが重要なのだ。
「読者を必要としない」というのは、そういう意味。最初から読者を意識せずに書いてもいいし、意識しつつも最終的には自分で判断する。こういう書き方でもいい。そこは、どちらでもいい。
ただ、「読者がいないと書けない」これだけはいけない。それだと、どこかで筆が止まってしまう。「ああ~、自分の作品は誰にも評価されていない。だから、価値がないのだ」と勘違いしてしまう。もちろん、その可能性もあるが、そうでない可能性もある。それは誰にもわからない。本人にもわからないし、周りの人々にもわからない。たとえ、現代の人々に評価されなくとも、後の世で突然理解されることだってある。
だから、読者などいなくても書き続けられるようにならなければ。
そうして、その行為自体が、読者を喜ばせるコトへとつながっていく。
「なんだ、アレは!?狂人か!?」
「バカも極めれば、おもしろいものだな」
「作品自体はよくわからんが、あの生き方だけは凄い!」
「いやいや、作品にもその生き方が反映されているぞ」
といった感じで、徐々に人々に喜ばれ、理解されていくだろう。もちろん、もっと別の評価のされ方かも知れない。それは何でもいい。
とにかく、読者を必要とせずに書き続ける。書き始めも、書いている途中も、書き終わっても。1つの作品を書き終わったら、次の作品に取りかかるのだ。そうやって延々と書き続ける。
その結果、人々を喜ばせられるようになっていく。これは、充分に可能な所業なのだ。




