常に未来を見て生きていると…
で、さっきの話の続きなんだけど。
500年も1000年も先の世界を見て生きていこうとすると、どうなるか?
そうすると、どうしても、“意識の差”が生まれてしまうのだ。それは、読者との意識の差。あるいは、生きている間に出会う他の人々との意識の差。
そりゃ、そうだ。こっちは何百年も先の未来に生きようと必死になっている。他の人達は、目の前を見て生きている。ここに差が生まれない方がおかしい。
こうして、僕と読者との差は、ますます広がっていくというわけ。
ここで、いつもの難問にブチ当たる。
“僕が、読者に合わせるか?読者が、僕に合わせるか?”
読者が、僕の意識の高さに目覚めるのを待っていてもいい。僕が見ている世界を、同じ視点で見ることができるようになるまで待っていてもいい。だが、それには時間がかかる。何ヶ月も、何年も。あるいは、何十年も。もしかしたら、僕が生きている間には到達しないかも知れない。
その間、どうなる?その間、僕は評価されないまま。「あいつは、よくわからんモノばかり書いている」「実力がないからだ」「読者が理解できるような小説を書く能力がない」「才能がないのだ」と判断されてしまう。
ま、僕としては、「それでもいいかな?」とも思うのだけど。そうなると、書いている小説も売れない。お金も入ってこない。必然的に、どこかの地点で極貧の中、孤独に死を迎えるコトになるだろう。
さすがに、それは僕の意図する人生ではない。
そうなると、僕が読者に合わせるしかない。
表現方法も内容も、“理想の読者”ではなく“普通の読者”に合わせるしかなくなってしまう。その方が、評価もされるし、多くの人々にも読まれるだろう。お金にもなるかも知れない。
ただ、「それでいいのだろうか?」という疑問もある。
それが、真の作家といえるのだろうか?その先に、究極の小説家への道はつながっているのだろうか?そういう疑問が。
こうして、僕は再び迷うのである。別の地点から始まった発想で、結局は同じ問題について悩むのである。




