セザンヌについて(後編)
さて、後編は、僕なりの「セザンヌの人生と絵」についての感想を述べたいと思う。
最初に言っておくと、僕はセザンヌの絵の良さは理解できない。
そう聞くと、多くの読者は、こう思われるだろう。
「またかよ!」と。
そう!泉鏡花の時と同じなのである。あるいは、多くの“文豪”と呼ばれる人々の作品と同じ。僕には、その良さも価値も全然わからない。
けれども、その人生には感銘を受ける。感動さえする。
ここから先は、その理由を説明していこう。
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僕からすると、セザンヌの描く絵は“中途半端”なのである。
さっきも説明したように、セザンヌが描いていた絵は、風景画・静物画・人物画が主な作品。なので、そもそも題材からして、退屈だと感じてしまう。
「もっと、空想上の生き物とか風景とか、そういうのを描けばいいのに…」と思ってしまう。
セザンヌの絵の中には、聖書のワンシーンを描いた物なども存在するのだが、それも心に響いてこない。
仮に、現実に存在する人や物をモデルにして絵を描くとしよう。
それでも、「もっと現実にあり得ない手法で描けばいいのに!」と、こうなってしまう。
風景画や人物画を描いているのに、興味を引かれる画家は何人もいる。そういった人たちは、もっと極端なのだ。「これは、現実にはあり得ないや!!」と一発でわかる。一瞬で理解できる。そういう絵を描いている人々。
僕が惚れるのは、そういう画家の描いた絵なのだ。
一例をあげておくと、“パウル・クレー”や“アンリ・マティス”そして“サルバドール・ダリ”
まだまだ他にも大勢いる。だが、その話は今回のテーマとズレてしまうので、ここではやめておこう。
いずれにしても、セザンヌの人生・その生き様については感銘を覚えるこの僕も、描いている作品に関してはサッパリなのである。
現代の評論家などが書いた解説を横にしながら見たとしても、全然理解できない。
頭の中では「ほう~、なるほど。そうやって鑑賞すればいいのね」とわかるのだが、感性にチットモ響かない。心で理解できないのだ。
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では、セザンヌの凄いところは、どこだろうか?
これまでなかったような斬新な手法に挑戦した所?
「そうじゃない」と僕は考える。
新たな手法に挑戦する人など、この世の中に無数に存在する。ただ、そのほとんどは途中で諦めてしまうのだ。実際に、セザンヌの編み出した手法に挑戦した人は、それ以前にも何人もいたことだろう。
そうではなく、最後まで諦めなかったことだ!
「自分の理想とする絵は、この頭の中に存在する!それを描き切るまでは絶対に死ねない!間違っているのは、私ではない。世界の方なのだ!」
その信念を最後の最後まで貫き通した人。
だから、僕は感動するのだ。セザンヌの描く絵は理解できずとも、その生き方・その人生そのものに!!「ああ、これは僕の人生と同じなのだ」と!!




