迷いの正体
ここで、もう1度、僕の“迷い”を整理してみよう。
迷いの正体がわからなければ、解決法も見出しようがない。
最初に、僕は小説を書いている。
ここまではいい。これは、事実だから。
次に、僕は“究極の小説家”を目指している。
ここまでもいい。これは、目標だから。
では、究極の小説家とは何か?
それは、次から次へと傑作をバンバン生み出すことのできる小説家である。
ちょっと難しくなってきた。けれども、これもまだ大丈夫だろう。なぜなら、これは定義だから。
さて、問題は次だ。
僕は、究極の小説家になる為に、能力を上げ続ける。そうして、小説を書き続ける。自分が傑作だと信じて疑わない小説を。
ここでおかしくなってくる。“僕が傑作だと信じて疑わない小説”と“現代の世間の人達が傑作とする小説”の間に差が生じてしまっているのだ。もはや、それは“差”なんで言葉では表現しきれない。“溝”だ!それも、とんでもなく幅が広く、信じられない程に深い溝!もう、全然底が見えないくらい深い!!
ここで、どうするか迷っている。
その迷いを簡単に説明すると、こういうコトになる。
「僕が妥協して、世間の人々が信じている傑作を書く方向へとシフトするか?
あるいは、それとは逆に、世間の人々が僕の書く小説に追いついてくるのを待つか?」
この、どちらの道を選択するかで迷っている。
これまでは、後者を選んでいた。余裕で後者を!!
僕は、人々が追いついてくるのを待っている。それどころか、追いつかれた時の為に、さらに先に進んでおく。追いつかれた時に、「お?まだ先があるのか?凄いなこの作家は」「え?まだまだ先があるの?」「ええ!?もっと先に進んでいるのか!?どうなってるんだ、コイツは!?」と思わせる為だ。
だが、この方法では、既存の読者との差が広がっていく。それは、特に“意識の差”だ。僕が、必死になってがんばればがんばる程、その差はグングン広がっていく。
僕がグングン成長していくのに対し、ほとんどの読者はそうではない。読書に“成長”なんて求めてはいない。あるのは、目の前の快楽だけ。1冊の本を読んで、「ああ!わかる!わかる!」という共感があったり、「ああ~、楽しかった!」と思えれば、それで満足なのだ。
もしも、成長があるとしても、それはオマケ。楽しんだ上で、ついでに成長もあればいいな、といった程度のものなのだ。僕のように、先に成長があって、ついでに楽しければいいというのとは違う。全く逆なのだ。
これでは、差が広がっていくのも頷ける。
さて、ここでどうするか?
読者が望んでいるように、読んで楽しい本を書くべきなのだろうか?その上で、成長もある。そういうタイプの小説を。
それとも、これまで通り、自分のスタイルを貫き通すべきなのか?最初にあるのが成長であり、能力の向上である。それで楽しめれば、なおいいかな、というもの。
ここに結論が出せないでいる。




