小説の限界に挑戦する!(「だから、僕は小説家になれない」の解説)
この小説は、何でもありである。
人々の想像している“何でもあり”を越えた次元で、何でもありである。
なので、僕は、この小説の解説を行う。僕が書いている、他の作品の解説ではない。この「だから、僕は小説家になれない」という作品そのものの解説である!
もちろん、こんなコトはタブーだ。タブー中のタブー。禁呪中の禁呪。
ただでさえ自作の解説をするのはタブーとされているのに、さらにそれを発展させて、現在執筆中の作品の中で、その作品そのものの解説を行ってしまうだなんて!
だが、だからこそ行う!やってのける!僕は、この作品で全てをやり尽くす!!やってはならないとされている全てを含めて、やり尽くしてやる!!
では、解説に入ろう。
この「だから、僕は小説家になれない」という作品。もちろん、これは「僕は小説家になれない」の続編。なので、ストーリー的には続き物である。だからして、前作を読んでいない人には、「何が何だかサッパリわからない」という部分が、いくつも存在する。あえて、そういう風に作ってある。
基本的な作りとしては、あらすじにある通り。
“時にまともに”かつ“時にトチ狂いながら”小説を書きながら生きていく。
“虚構”と“現実”の狭間で。
そう!この小説は、ある意味で非常にまとも。それでいて、完全にトチ狂っている。もはや、それは宗教の領域である。狂信的な信者のそれと同じ。“小説を書く”という行為に取り憑かれた狂信者の人生を描いた物語なのだ。
そして、それはある種の虚構。この小説の主人公である“僕”という存在そのものが、既にフィクションだとも言える。実際に、この小説を書いている作者が、このような性格であるわけではない。いや、ある部分でそれは真実なのだが。作者=僕(この小説の主人公)ではない。
ではないのだが、共通している点もあるし、完全に一致してしまっている瞬間というのもある。
これを言葉で説明するのは難しいのだが、あえて説明するならば以上のようなものになる。
もう1つ。ここで、読者からの最大の質問の1つに答えておこう。
「これって、エッセイであって、小説じゃないんじゃないの?」
そう!
ここまで読んできた読者ならば、誰でも1度は頭に思い浮かぶであろう疑問。それは、「これって、本当に小説なの?」
それに対しては、断言しておこう。
「この作品は、間違いなく小説である!!」と。
そもそも、小説に決まり切った形などない。詩やエッセイなどを含めて、強引に「これは、小説だ!」と言い切ることもできる。だが、そういう広義の意味での小説ではない。もっと真に迫った意味での“小説”なのだ。
なぜならば、この作品は、虚構だからである。ありとあらゆる場所に、嘘が含まれている。一読しただけではわからないように、無数の嘘が含ませてある。
そもそも、さっき説明した通り、この僕の存在そのものが既に虚構なのだ。虚構の存在が“自ら、虚構である!”と認識しているに過ぎない。
これを小説と呼ばずして、何と呼ぼうか?
僕は、小説の限界に挑戦する。その為には、何だってやる。やってみせる!
たとえば、この小説の外に飛び出して、自作を説明してみせたりもする。作者ではなく、この小説の主人公である、この僕が!だ!
もはや、作者=僕であるのかも知れない。少なくとも、そういう瞬間は存在するし、徐々にその時間は長くなりつつある。やがては、作者と僕は完全に同化して2度と離れなくなってしまうかも知れない。あるいは、この僕が作者を取り込んで、現実の世界の作者の人生を乗っ取ってしまう可能性だってある。
もしも、それが“究極の小説家”への道だとするならば、僕は迷わず、そういった行為を行うだろう。
まさに、“何でもあり”なのだ!最高の作品を生み出す史上最高の作家になる為にならば、何でもありなのだ!!




