能力さえ極めておけば、あとは使い方の違いに過ぎない
僕が目指しているのは、究極の小説を生み出す“究極の小説家”
それも、1作で終わったりはしない。次から次へと、傑作を生み出すことのできる者でなければならない。
その為には、能力の向上が必須。能力さえ上げておけば、あとは使い方を変えてやればいい。それで、いかなる作品も生み出せるようになるはず。
これを基本理念として生きている。
この作品を読んでもらえばわかる通り、僕は非常に堅苦しい文章を書いている。自分では、これでもかなりわかりやすく書いているつもりなのだが、多くの読者にとってみると、そうではないようだ。
ただし、この手の文章しか書けないわけではない。これは、基本。基本的な文章の書き方さえ極めておけば、あとはどのようにでも応用が利く。
能力そのものとは別に、“目的の違い”というものがある。
この小説の目的は、“いかに読者を気持ちよくするか?”ではない。むしろ、それとは対極に位置すると言っても過言ではないだろう。この小説を書いている僕自身の能力の向上。そして、この小説を読んでいる読者の能力の向上を目的としている。
そこには、やさしさはない。楽しさや幸せもない。あるのは、厳しさのみ。能力の向上とは、常に厳しさが伴うのだ。いや、それは言い過ぎたか。厳しさの中にも、楽しみや幸福といったものは存在するのだ。ただ、一見すると、そうとはわからないだけで。
その幸せとは、一体、どういったものであろうか?
それは、修練そのもの。“鍛える”という行為そのものが、やがて快感へと変わっていく。ある種、マゾ的なもの。
だが、それとは別に、幸せを感じる瞬間もある。もちろん、それは“能力が上がった時”あるいは、それを実感した瞬間である。
たとえば、ロールプレイングゲームなどをプレイしていて、ザコ敵を倒し続けなければならない時期があるだろう。最初は、「面倒だな~」「やめたいな~」などと思ったりもする。だが、徐々にそれが快感に変わっていく時というものが来る。単純作業であるにも関わらず、作業そのものに幸福を感じるようになっていく。あの感覚。
そうして、その後、レベルアップを果たす。さらには、以前は倒せなかったような強敵を倒せるようになっている。あの感覚。
僕が、小説の世界で目指しているのは、それだ。
僕だけではない。僕の書く小説を読んでいる人も、同じように能力が上がっていくようにと考えている。この小説は、そのようにして作られているのだ。
それは、パッと見ではわからないかも知れない。その厳しさに絶えられずに、途中で脱落していく者も大勢いるだろう。だが、それでも断言しよう。
「この小説は、書いている者も、読んでいる者も、時と共に能力が上がり続けていく!」と。
すぐにとは言わない。能力の向上には時間がかかる。
それでも、3ヶ月、半年、1年後…
その差は、確実に生まれていることだろう。




