僕が、ヘルマン・ヘッセを“史上最高の読書家”であるとする理由-4
極めつけは、3つの読書法である。
ヘルマン・ヘッセは、こう語る。
「読書には、3つの方法がある」と。
1つ目。
それは、素直に読む方法。作者が書いた文章を、そのまま素直に受け取る。
「フムフム、なるほど」などと頷きながら、納得して読み進める。
これは、初心者の読み方。だが、同時に上級者の読み方でもある。様々な書物を読み慣れた人ならば、再びこのような読み方に戻ってくる可能性があると語っている。どのような本でも、偏見なく読み進めるコトができるようになるというのだ。
2つ目。
それは、作者とは別の視点で読む方法。作者と対話しながら読む。時に、それは反論となり、対立となるだろう。
「この作者は、こんな風に語っているけれども、それはちょっとおかしいぞ」
「この人は、あまりモノを知らないのだな。だから、このような意見になるんだ。僕だったら、こういう風に書くのに」
「こんなバカな話があるものか!こいつは、全然わかっていない!ほんとは、こうなるはずなのに!」
などといった感じで、読者の視点で読み進めていく。これは、1つ目の読み方に飽きてきた読者がする読み方。
さらに、3つ目。これは、最も難易度が高い。
2つ目の読み方をさらに発展させ、完全に読者の視点のみに従って読み進めていく方法。
この読み方については非常に説明が難しい。なぜなら、“何でもあり”だから。極端な話、本の中身などどうでもいい。その本に何が書かれているかなど関係なく、読者は想像力を膨らませ、考えを進めていく。最終的には、アルファベットの羅列や、単なる模様からでも、何かを感じながら読み進めるコトができるようになっていくというのだ。これは、もはや読者ですらないとも言える。
一般的に、この方法は“悪い読者”として認識されているが、実はそうではない。これこそが、最も高度であり、難易度が高い読書法だと、ヘッセは語っている。
そして、ここからが重要。
これら、3つの読み方は、人によって違うわけではない。どれか1つだけできて、他ができないというようなモノではない。
時によって視点は移り変わり、本によっても読み方を変えていく。同じ人でも、この3つの読み方を常に移動しながら読んでいけるようになるというのだ。いつまでも、同じ場所に留まってはいない。
そうして、この3つの読み方を自由自在に移動できるようになった時、それは“理想の読者”になれるのだと、そう語っている。
*
僕は土下座した。思わず、心の世界で、ヘッセに向って土下座していた。
この文章を読んでいる途中に、僕は土下座したのだ。
“こうべを垂れる”という言葉があるが、こういうものかと実体験を通して知ったのは、この時が生まれて初めてだった。
僕は、心の中で、自然と頭を下げていたのである。そうしようと思って、そうしたのではない。自然と頭が下がっていたのである。
僕は、「申し訳ありませんでした。私が浅はかで御座いました」と心の声で謝っていた。
自分が考えていた世界が、いかにチッポケなものであったのか思い知らされた。同時に、安心した。「認めてもらった」という自信にもなった。
これまで、僕がやっていたのは、3つ目の読書法ではないか。いや、3つ目の読書法で読んでいるコトが何度もあった。だから、本がつまらなく感じていたのだ。
「こんなものならば、あいうえお表が並んでいるのと同じだな」と、心の中で強く思った経験が何度もあった。そうして、本の内容に関係なく、勝手に自分で世界を作って空想して遊んだりしていた。
その読み方は、決して間違ってなどいなかったのだ。それどころか、ヘッセは褒めてくれたのだった。
それから、僕はどのような本を読む際にも、この3つの読書法を意識して読むようになった。
そうして、完全にとは言えないまでも、ある程度はこの3つを駆使できるようになった。
これ以降、僕は、ヘルマン・ヘッセを師と崇めている。いや、そんなものではない。僕が目指しているのは、読書家なんかじゃない。だから、師匠という表現はおかしい。
ただ、“史上最高の読書家”であるコトだけは、確かだ。それに異を唱える者がいるならば、僕は全力でそれに反論しよう。持てる能力の全てを尽くして、ヘッセがいかに偉大な読書家であるのかを語り尽くそう!
それは、ある意味で“全然読書家なんかではない”と説明しているのと同じなのだけれども。少なくとも、世間の人々がイメージしている読書家の姿とは、かけ離れた姿となっているだろう。かつて、僕が思っていたのと同じように…




