僕が、ヘルマン・ヘッセを“史上最高の読書家”であるとする理由-2
ある日、僕は図書館で本を眺めていた。“本棚を眺めていた”と言った方が正確かも知れない。
僕は、大した読書家でもないにも関わらず、図書館に通うのが好きなのである。そうして、ロクに本も読まずに、本棚ばかりを眺めていた。
それまでの僕は、このような行為を頻繁に繰り返していた。
ちょっとでも心に引っかかったタイトルの本があると、本棚から引き出してみる。何冊かそのような本を集めると、席にまで持ち帰る。そうして、中身を確認する。すぐに飽きる。
「次!その次!さらに次!」
心の中で、そう叫びながら、僕は次から次へとペラペラと本をめくってみては、閉じる。席に持ち帰った本の中身を全て確認し終わると、また最初からその作業を繰り返す。別の気になった本を集めては、イスに座ってペラペラと中身を確認し、本棚へと戻しに行く。その繰り返し。
そうして、心にヒットする本に出会うと、今度はその1冊に集中し、読書に没頭する。最後まで読み終えると、棚に戻しに行く。この本は、その後、何度も読み返されるコトもある。場合によってはお金を出して、全く同じ本を買い求め、自宅の本棚に並べておくコトもある。ただし、そこまで到達できる確率は非常に低い。
その結果、どうなったか?
図書館中の本をチェックし終わり、読む本がなくなってしまったのである。
もちろん、中身を全部読んだわけではない。だから、撃ちもらしがあるだろう。ただ、背表紙で題名だけは全て確認した。貸し出し中の本もあるから、完全に全てとは言えないが、それでも9割以上の本は確認し終えた。95%以上かも知れない。
その本に出会ったのは、そんなある日のコトだった。
僕は、海外の児童文学の本棚の前にある席に座って、本棚を眺めていた。
アメリカとイギリスの児童文学→ドイツの児童文学→フランスの児童文学→その他の児童文学といった風に並んでいる。それらが、それぞれア行の作家から順番に並べられているわけだ。
「これは、おもしろいな~!」
僕は、そんな風に心の中で呟いた。図書館の中なので、実際に口に出して喋るわけにはいかない(図書館では静かにしていなければならない。そんなルールが存在する)
僕は、徐々に恍惚とした気分になってきた。
「美しいな。これは、いい。本のページを開いて読んでいるよりも、よっぽど楽しい。こうやって、ボンヤリと本棚を眺めていたり、背表紙に印刷されている題名を順番に読んでいく方が、よっぽど楽しい。この方が物語がある。想像力が、かき立てられる」
そんな風に、考えていた。
その時だった。僕は、ふと思いついた。
「もしかして、僕が本を読むのが苦手なのは、本の読み方を知らないせいなのかも知れないぞ…」と。
「だったら、本を読む為の本を読めばいいのでは?“本の読み方”とか“読書術”とか、そういったタイトルの本を探そう」と、そう思った。
そうして、即座にそれを実行に移した。思い立ったら、即行動!
“読書・読書法”と書かれた棚に向うと、それらしき本を片っ端から引き抜いて、自分の席へと戻った。“読書術”とか“本の読み方”などとタイトルに入っている本は、全て中身を確認してみた。その中に、その1冊はあったのだ。
ほとんどは、何の役にも立ちはしなかった。中には、ちょっとだけ勉強になった本もあった。学べるコトは少なかったが、楽しく読み進められた本も何冊かあった。
だが、その本は違っていた。「ヘッセの読書術」という題名の、その本は。
もう、根底から全然違っていた。僕の作っていた固定概念を徹底的に破壊してくれた。というよりも、僕が考えていた“世間の人々の本の読み方”や“読書家のイメージ”を根底から覆し、カケラも残さずに破壊し尽くしてくれたのだ。




