僕が、ヘルマン・ヘッセを“史上最高の読書家”であるとする理由
さて…では、そろそろこの辺で「僕が、ヘルマン・ヘッセを“史上最高の読書家”であるとする理由」を説明していきたいと思う。
この話は、ちょっとばかし長くなる。なので、おそらく1話では終わらない。何話かに渡って書いていくことになると思うし、それが終わった後も、ちょこちょこと続きを書き続けるだろう。
大前提として、覚えておいて欲しいのは、「僕は、別に大した読書家ではない」ということである。それどころか、そんなものになりたいだなんて、微塵も考えていない。結果的に、そうなることがあったとしても、それは別に目指していてなったものではない。
僕が目指しているのは、あくまで“史上最高の小説家”であって“史上最高の読書家”でもなければ“究極の読書家”でもない。“普通の読書家”にすら、なろうとは思ってはいない。
書く方の能力が上達すれば、それでいいのであって、読む方の能力を上げる必要などない。そんなモノは、オマケに過ぎない。「読む能力が上がれば、ちったぁ書く方の能力も上がるかも知れないな~」程度のものである。
なので、世の中に存在する本の多くは、読み進めることができない。あるいは、読もうという興味すら起きない。ペラペラと何ページかめくってみて、「駄目だな、これは。全然読むに値しない」などと言って放り投げたり、静かに本棚に戻したりするのみである。
例のごとく、ヘルマン・ヘッセという人の著作に関しても、似たようなものなのだ。
さすがに、読み進めることができないというレベルではないが、読んでみて、特別感銘を受けるだとか、感動に打ち震えて涙を流すだとか、そういったコトにはならない。
ヘッセの小説を読んでみて、「なかなか、おもしろいな」とは思う。「お~!わかるわかる!」と、共感してみたりもする。詩に関しては、もっと心を動かされる。中には「いいぞ!これ!」「あ~、この詩は美しいな!!」なんて思ったりする時もある。
エッセイも、かなりおもしろいと思う。50年以上の前に書かれた文章にも関わらず、現代でも通用する。何度も読みたくなるような文章だって、いくつもある。だが、そこまでだ。それ以上ではない。
ま、そんなものなのだ。「これならば、僕にでも書けてしまうだろうな」という思いが、どこかにある。「たとえ、今すぐにではなかったとしても、研鑽を積めば、いずれ書けるようになるだろう」という感覚が心のどこかに存在してしまっているのである。太宰治の時と同じだ。
それでも、この世の中に存在する無数の作家の無数の著作の中では、かなりレベルの高い方だなとも認めてはいる。なぜなら、この僕が読めてしまうのだから。
大した読書家でもないこの僕が読めてしまう程の本。それも、そこそこ感動したりはする。それは、かなりのレベルであると言わざるを得ない。
そんな中、1冊の本に出会った。
その名は「ヘッセの読書術」




