暴れ松!乱れ松!踊り松!
“僕の小説は、大木のようだ”という話は、以前にもしたと思う。
この「僕は小説家になれない」シリーズが、根っこの部分。大地にシッカリと根を張り、決して揺るがぬ強靭な意志のようなもの。
そういう意味では、ここは表に見えている必要はない。大木の根がどのようになっているかなど、読者には関係がないのだから。見えている必要があるのは、他の小説たち。枝葉の部分。
ところが、最近、この小説自身がアプローチを始めた。
「もっと読まれたい!もっと大勢の読者に読まれるように、工夫してくれ!」と。
さて、これには僕も困った。
元々、読者に読ませる気のない小説である。
全くないわけではないのだけれど、ほとんどその気がない。せいぜい2割程度である。「いい小説を書こう」という思いが8割。「その上で、読んでくれる人がいればいいかな?」という思いが2割。
日によっては、その思いすら、ほとんどなくなってしまう。「最高の作品に仕上げる為に、読者は全部切り捨てる!そうなっても構いはしない!」と、そういう思いでやっている瞬間もある。
けれども、大木の根であるはずのこの小説が、幹となり、枝葉となり始めたのだ。
そうして、その枝はグネグネとねじ曲がり、あらぬ方向へと伸びてゆく。自由意志に従って好き勝手に伸び放題。まるで、松である。
松の木というのは、放っておくと、いくらでも勝手に伸びていってしまう。樹齢何百年という松ともなれば、“荘厳”という一言では表現しきれない程の、威厳と重さと気高さを感じさせるようになる。
小説そのものだけではない。文章に関しても、同じコトが言える。
僕は、文章をあまり統一しない。細かい部分で、マイナーチェンジを繰り返す。時には、文体そのものをも大きく変貌させてしまうことすらある。
わざと、表現を変えてみたりする。あるいは、書いている内に自然と統一感を欠いてしまった場合にも、あえてそれを放置しておいたりする。できる限り修正しない。
さすがに、誤字脱字程度は直すように心がけているが、それ以外はあまり手を入れないようにしている。場合によっては、「誤字脱字すら“1つの味”として残しておいてもいいのではないだろうか?」とさえ考えるようになってきた。
人々が書く小説は、まるで、手入れの行き届いた庭木のようなものである。読み手が、そのような小説を望むから。そうして、書き手の方も、それに素直に従って、アレやコレやと手を入れてしまう。
それはそれで1つの美しさではあると思う。だが、僕の目指す小説の形というのは、そういうものではない。それとは全く違う。自然に生息する1本の巨木のようなもの。
たとえ、生えている場所は街中だとしても、それは変わらない。庭だろうが、公園だろうが、街路地だろうが変わらない。立っている場所に関わらず、自然に生える1本の木のように生き続け、成長し続ける。
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“暴れ松”という言葉がある。
まるで暴れるように、その枝葉を自由に伸ばしていく。もちろん、職人には嫌われる。
「もはや、こんなものは、剪定のしようがない…」と呆れられる。
だが、それも極めれば、1つの美しさとなる。丘の上に立つ1本の暴れ松の、いかに美しきことよ。
“乱れ松”という言葉もある。
乱れ髪のように、ボサボサの枝葉。全く人の手が入れられていない。だからこその意志を感じる。
“踊り松”という言葉も存在する。
一心不乱に踊り続ける1人の踊り手のような姿から、そう名づけられた。グネグネとねじ曲がったその枝は、まるで目にも止まらぬ速さで振り続けられる人間の手足のようである。
この3つは、どれも同じような意味ではあるが、微妙に意味合いが違ってくる。
あるいは、僕も、このような松の姿を目指すべきなのかも知れない。
暴れ松、結構!乱れ松、結構!踊り松、結構!
自然とそうなるならば、それでよし!むしろ、自らそれを目指せ!!




