SF小説が、なぜ読まれないのか?
ふぅ…よく寝た。おかげで、かなり体力を回復できた。
昨日は、もっといろいろと書くつもりだったのだが、疲弊していて思うように進まなかった。さしあたって5つくらいは書いておきたいコトがあるのだが、肉体の方が追いつかない。精神だけ、先に進んでしまっている感じ。
完全に肉体を放棄してしまい、精神だけの生命体となれば、もっと数多くの作品を世に発表できるのだろうけれども。ただ、そうなると、パソコンのキーボードを叩くことすらできなくなってしまう。もっと別の伝達手段が発明されなければ。
たとえば、直接人間の脳に情報を送るテレパシーのような技術とか。あるいは、思った瞬間に文字が書き込まれるシステムとか。
ま、そんなコトはいい。
今回は、別の話…をしようと思ったのだが、せっかくの流れだ。この流れを破壊しないように、このまま話を進めてみよう。
技術と言えば、SF。昨日は、「SFは、独自の用語が連発されていて読みづらいよ」という話をしたのだけど、実は、そうとは限らない。独自用語や専門用語がほとんど出てこない作品もあるにも関わらず、SF小説というのは、あまり読まれていない。
これには、いろいろと理由がある。今回は、その理由を考えていきたいと思う。
1つには、“文章が固い”というのがある。
SF小説を書く作家というのは、当然のことながら、理論で書くタイプが多い。“理系脳”という言葉があるが、おそらく、それなのだろう。複雑で独自の設定を考える為に、その脳みそのほとんどを使ってしまっている。
なので、“いかに読者が読みやすいように文章を書くか?”などというコトにまで頭が回らないのである。
ところが、読者の方は、そっちを期待している。「この小説は、どんな風に僕を楽しませてくれるのだろうか?」「私の心にフィットするかしら?」などという思いを馳せて、本のページを開く。すると、そこにはガッチガチの固い文章の羅列!羅列!羅列!
思わず、読者は本のページをパタンと閉じる。そうして、そのまま2度と開かれないコトも多い。
別の理由もある。翻訳の問題である。
これは、海外のSF小説を日本語に訳す時に生じる問題なのだが、元の文章は、それなりに読みやすかったのに、日本語にしてしまった為に読みづらくなってしまったというわけだ。
もちろん、これは翻訳家の責任が大きい。とは言え、SF小説を日本語に訳すのは、なかなか骨が折れる。いや、SFだけではない。全ての小説・全ての本は、日本語に直す際に、別の本になってしまっている。これは、仕方がないし、どうしようもない。
ただし、真に優秀な翻訳家ならば、元の良さを消さずに日本語に訳すことができるはず。それどころか、原書よりも翻訳版の方がデキがいいという奇跡のような芸当だってやってのけられないわけではないのだ。
たとえば、「アルジャーノンに花束を」なんかが、その代表的な例だろう。これは、日本語で読んだ方が遥かにおもしろい!主人公であるチャーリー・ゴードンの変貌が手に取るようにわかる。“ひらがな”という文化を使うことで、その変貌ぶりがより際立つのである。
最後に、決定的な理由。
それは、読者の信頼性のなさ。「SF小説なんて、堅苦しくてツマンナイんでしょ?」と思い込まれている。事実、その通りの作品も多い。一生懸命がんばって読んでみたけれども、おもしろさがよくわからない作品というのも、いくつもある。
けれども、それとは逆に、「一生懸命がんばって読んでみたら、思ってもみなかったおもしろさがあったよ!」という作品だって、いくつもある。
その割合がどのくらいなのか?というコトは、僕には断言できない。半々かも知れないし。7割くらいかも知れない。もしかしたら、3割を切ってしまうかも。10冊読んで3冊。それだと、なかなか厳しい。
ただ、これは仕方がない。人によって、感性は違うし、読書能力も違う。本来ならば、いい作品なのだが、読者の読書能力が追いついていない為に、元の良さが理解できない時もあるだろう。あるいは、読者の感性の方が先に行き過ぎていて、作品を越えてしまっている時もある。
ま、これはSF小説に限ったことではない。
ただ、“苦労して、がんばって読んでみた割”に、おもしろさが理解できなければ、そのショックはより大きくなってしまうだろう。
以上のような理由により、SF小説は、あまり読まれなくなってしまったのだが…というか、元から読まれていないのだが(一時期、読者が増えていたという話もある)
他の本に飽き飽きして、もっと歯ごたえのある書物に挑戦したくなった人は、海外のSF小説などに手を出してみるのも、1つの手ではないだろうか?




