だから、SFはおもしろい!
ちょっとだけ、昨日の補足をさせてもらおう。
泉鏡花が、新しい日本語を生み出していたという話。
アレ、実は“新しい言葉を生み出していた”というよりも、新しい読み方を生み出していたといった方が近かったかも知れない。ま、そういうコトもやっていたのかも知れないが、どちらかといえば、こちらの手法の方がメインだったようだ。
元々存在する熟語に、本来はなかった読み方を与える。あるいは、元々はひらがなで表記していた言葉に、無理矢理に漢字を当てはめる。こういった手法を得意としていたらしい。
鏡花の発表する作品が、全て総ルビを振られているというのにも納得がいく。そうしなければ、読者が、鏡花の意図した読み方で読めないのだ。
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“新しい言葉を生み出す”
実は、こういったコトは泉鏡花に限った話ではない。何人もの作家が、この偉業に果敢に挑戦している。だが、そのほとんどは、人々の間に定着することはなく、その作家独自の使い方(もしくは、その作品中のみ)で終わり、しだいに忘れ去られていっている。
それでも、いくつかの言葉は、現代日本語としても定着しているし、今後も残り続けるだろう。
たとえば、“マジ”という言葉がある。これは、本来、日本語には存在しなかった単語である。“真面目”が短縮されてマジになったらしい。
「マジで~!?」
「マジかよ!」
などという驚きを含んだ使われ方をするコトが多い。
英語でいうところの“really?”に近いのではないだろうか?
一説によると、江戸時代くらいにも一部の人々の間で使用されていたという話もあるのだが、本格的に日本全体で使われるようになったのは、もっと最近のこと。せいぜい、ここ30年くらいだと思われる。
マジという言葉は、一時の流行に終わらず、完全に日本語の一部になってしまったわけだ。
他にも探せば、似たような言葉はいくらでもある。
それが、自然発生的に生まれたか、意図して誕生した言葉かの違いはあるだろうが。
作家は、それを意図して生み出そうとするわけだ。
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特に、海外のSF小説において、この手法は頻繁に用いられる。日本のSF作家でも、やっている人は何人もいる。
その作家独自・その作品独自の単語を使うという手法は。
ここで、多くの読者はこう思うだろう。
「だから、SF小説は読みづらいのだ!」と。
おっしゃる通りである。だから、SFというのは読みづらい。敷居が高い。その小説の世界に入り込む前に、まずはその世界独自の設定や言葉などを理解し、覚える必要があるからだ。
これでは、読者の数を限定してしまっても仕方がない。
けれども、あえて、僕は言わせてもらおう。
「だから、SFはおもしろいのだ!」と。
確かに敷居は高い。条件は厳しい。だが、その厳しい条件を乗り越えた先には、至福の時が待っている。少なくとも、待っている作品もある。全部が全部とは言わないが、何作も読めば1作くらいは、そういった作品に出会えたりする。
そうして、その作品を心の底から楽しむ為には、そういった“独自の単語”や“複雑な設定”が必要なのだ。作者は、わかっていて、あえてそういう表現をしている。なぜならば、それがその作品にとって、最適な表現方法なのだから。作者は、それを、おもしろさを最大限に引き出す手法だと信じて疑わない。事実、そうなっている場合は多い。
もちろん、これは“読者切り捨て型小説”の1つである。
作者が読者に歩み寄ったりはしない。読者の方から作者に向って歩み寄らなければ、その本当のおもしろさは理解できない。
読者が読者の視点で読んでいる限り、おもしろさがわからない小説というのは存在する。その楽しみ方が理解できない文章というのは存在する。読者が、作者の視点に立って読む必要があるからである。




