新しい言葉を生み出す
さあ、きた!深夜の時間帯!僕の時間だ!この僕の能力が、最大限発揮される時間!!
さあ、ゆかん!いざ、ゆかん!
さて、何を書こう?
前回の話で、“この小説を真剣に読めば、自然と能力が上がっていく”というようなコトを語ってしまったので、今回はそこの所を意識して書いてみようと思う。
本来ならば、もっと無意識の内に能力が上がるようにしたいと思っていたのだけど…
つまり、この小説を読んでいて、怒ったり、笑ったり、蔑んだり、納得したり、反論したりしている内に、読んでいる人の“文章を読む能力”と“文章を書く能力”というものが、自然に上達していくようにしたいと考えていた。
もちろん、それだけでは難しい。どこかで反復練習というものは必要になってくるだろう。
文章を書く能力を上げたいならば、実際に自分で書いてみる必要がある。文章を読む能力を上げたいならば、他の本や文章などをいくつも読む必要が出てくる。
…とはいえ、その前段階として、伝えられるコトは伝えておきたい。ただ単に訓練を繰り返すだけでは身につかなかったコトが身につくようにしておきたい。
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突然だが、ここで、泉鏡花の名を出させてもらおう。
前にも話した通り、僕は泉鏡花の作品を読むのが苦手である。彼の人物には興味が持てるが、作風は苦手である。なかなか前に読み進めることができない。2~3ページ眺めては、読んでいた本をポ~イと放り投げる。その繰り返し。
ただ、その作風にも、1つだけ共感できる部分がある。それは、“新しい言葉を作り出していた”という部分である。なんと!彼は、自分で新しい日本語を生み出していたのだ!
実は、これ、僕も以前はやっていた。最近は、いろいろ考えてやらなくなってしまったが、「再び手を出してみてもいいかな?」と考えている。
当たり前の話ではあるのだが、基本的に、こんなコトはやってはならない。タブーである。なぜなら、読者が理解できないから。書き手が勝手にガンガン新しい単語を生み出してしまったら、読んでいる読者は混乱するに決まっている。そもそも、意味がわからない文章になってしまう。
けれども、あくまで、これは“読者主体”の文章の読み方をした場合。それとは逆に、“作者主体”の文章となれば、話は別。作者主体の文章には、作家性が求められる。
“新しい言葉を生み出す”これほど作家性を求められる行為が他にあるだろうか?まして、自分が生み出した単語を、他の人達がマネして使い始めたとしたら?想像しただけでも、ワクワクしてくる!
できれば、これは自然な形で行うのが望ましい。つまり、“作者が生み出した”というコトを意識させず、読者がそのまま意味を理解して読み進められるようにする。これが、理想!
ただし、理想は理想。現実的には、そう上手くはいかない。なので、作者自ら解説を入れるような形でも構わないと思う。「これは、こういう意味ですよ」と解説を入れる。できれば、わざとらしくない形で。他の文章と文章の間に、サラッと解説を入れてみせる。それで、その新しい言葉を読者に認識させる。
その後は、徐々に使う回数を増やしていき、認知されるようにしていく。
ま、方法は何でもいい。とにかく、新しい言葉を自ら生み出す。これは、非常に作家性を求められる行為である。
そして、読者の方も「なんだ、これ?勝手に言葉を作りやがって。バカじゃないの」などと思わずに「ほう。この人、自分で新しい言葉を生み出してるんだ。凄いな。これは、かなり高度な技術だ」などと感心してみせるのが、理想の読者のあるべき姿というものである。




