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“究極の読書家”のヒナ

 なぜ、ヘルマン・ヘッセの話をしたのか?

 それには、1つの理由がある。


 実は、僕はこの人生で既に出会っている。

 “究極の読書家”になれる可能性を秘めた1人の男に。彼は、まだ“究極の読書家”の卵に過ぎない。いや、卵の時期は既に過ぎているので、ヒナと言っておこうか。


 “伏竜鳳雛”

 未だ竜は地に伏し、鳳凰はヒナのまま。

 そう!彼は、まだ鳳凰のヒナなのだ。


 Y君。仮に、名をそうしておこうか。

 Y君は、生まれながらの読書家ではない。通常、読書家というのは、物心ついた頃から、周りを本に囲まれて過ごしているものだ。親だとか兄弟だとかが本好きで、子供時代から常に本に埋もれるようにして生きてきている。そうでなくとも、近くの図書館などに通い詰める生活をしているはずだ。


 僕の人生も、少し近い部分はあった。そんなに数は多くはないのだが、それでも家にはちょっとした大きさの本棚があり、ある程度好き勝手に本を購入してもらえる環境にあった。

 中学生くらいからは、図書館に通っていた時期もある。ただ、それも“通い詰めた”というレベルではない。学校の行き帰りに、毎日2時間程度の読書をしていたに過ぎない。

 それも、高校生くらいからはやめてしまった。再び本を読み始めたのは、もうちょっと後になってからである。


 以前に話をした“現代の泉鏡花”S君も、そのような環境にあったという。

 両親が本好きで、周りを本に囲まれて生まれ育った。そうして、ある程度の年齢に達すると、猛烈な勢いで読書に没頭し始めた。古今東西、ありとあらゆる本を、ジャンルを問わずに読み続けた。それも、普通の人では到底理解できないような哲学書や古典作品にまで手を出し、読み漁ったのだという。

 それだけではない。日本の作品だけではなく、海外の作品にまで手を出していた。むしろ、そちらがメインだったとも聞く。必要とあらば、原書で。さすがに、全ての言語でとまではいかないようだが、英語だけではなくフランス語の原書などにも挑戦してきた歴史がある。


 Y君は、そういうのとは全然タイプが違う。

 これまで読書とは縁もゆかりもなかった。本格的に本を手に取り始めたのは、ここ数年らしい。大学に入ってから。

 ある日、ある大学の先輩に、こう言われたのだそうだ。

「本を読んでる奴は、皆、おもしろい」

 いや、逆だったかも知れない。「おもしろい性格をしている奴は、例外なく、皆、本を読んでいる」だったか?

 ま、なんにしても、Y君はその言葉に感銘を受けた。そうして、その言葉を信じて、本を読み始めた。で、読書のおもしろさに目覚めた。

「なんと!ほんとだ!読書って、こんなにもおもしろいものだったのか!僕は、これまでの人生、損をしていた!こんなおもしろいコトを知らなかっただなんて!!」と。


 僕からすると、その先輩の意見には、ちょっと疑問もある。

 別に本を読んでいなくても、おもしろい人は山ほど存在する。本を読んでいるから、おもしろい人物かというと、そうとも限らない。ヘッセのように、様々な本の読み方ができるならば、話は別だが。あるいは、トコトンまで1つの読み方を極めるだとか。それならば、おもしろい人物に違いない。

 だが、いずれにしても、僕はその先輩に感謝したい。なにしろ、Y君に読書の楽しみを教えてくれたのだから。この瞬間、鳳凰の卵は割れ、ヒナは誕生したわけだ。


         *


 さて、では、そろそろY君の何が凄いのか、そこの所を説明しなければならないだろう。

 通常、読書家というのは、子供時代からたくさんの本に触れて過ごさなければならないという話はしたと思う。大人になってから本を読み始めても遅いのだ。自ずと、そこには限界が生じる。

 ほとんどの人間は、もうそこから、まともに本を読んだりはできない。できたとしても、せいぜい、普通の読み方だけだ。普通の本を、普通の読み方で読む。「共感する」だとか「楽しみながら読む」だとか、そういった普通の読み方。

 ハッキリ言おう。

「大人になってから本を読み始めたって、もう手遅れなのだ!究極の読書家への道は、既に閉ざされている!」


 ところが、Y君はそうではない。そうではないにも関わらず、“本の読み方”を知っているのだ。それも、一方的な読み方ではない。“それぞれの本に合わせた、それぞれの読み方”を、だ!これでは、まるでヘルマン・ヘッセではないか!


 正直、Y君の読書量は、たかが知れている。これまでの人生を通して、本格的に読んだ本の数など、数百冊程度だろう。現在も、年間に読む量なんて数十冊かそこら。下手をすれば、数ヶ月に1冊しか読めない時期さえある。世の読書家からすれば、圧倒的に少ない量である。

 だが、逆にそこが末恐ろしい。

「たったそれだけの読書量で、こんなにも様々な読み方ができるものなのか!?」

 僕は、そこに驚かされた。


 これは、神が与えし才能だよ。

 どういう理由かは知らない。けれども、Y君は持っているのだ。究極の読書家への道。知らず知らずの内に、そのチケットを手にしてしまっている。


         *


 きっと、“現代の泉鏡花”がこの話を聞いたら、嫉妬するだろう。嫉妬に苦しみまくって、発狂してしまうかも知れない。彼の場合は、基本的に1つの読み方しかできない。

「この本は、いかに美しいのか?」

 その1点に集約されている。極端な話、内容など、どうでもいいのだ。本の中身だけではない。装丁・手触り・本の大きさ・重さ。もちろん、文字の大きさや文体、言葉の選び方の1つ1つ、改行や段落のタイミングまで含めて全て、「美しいか?否か?」によって判断されている。そこしか見ていない。いや、見えていないのだ。

 そこが、彼の才能であり、同時に能力の限界でもあるのだから。


 それを、たかだか数年、わずか数百冊の読書量で軽々と越えられてしまったと、知ってしまったら…!?

 想像するのもかわいそうだ。


 だが、現代の泉鏡花君よ。

 君は君で別の才能を持っている。それを卑下する必要などない。誇りを持って生きていくがいい。タイプは違えど、それも1つの読書家の形なのだ。立派な読書家のね。究極の読書家ではないかも知れないが、ある意味、それ以上のものがある。


         *


 再び、話をY君に戻そう。

 どうやら、最近の彼は、あまり本を読んでいないらしい。実に、もったいない話だよ。労働に従事し、空いた時間はオンラインゲームなどに興じる。

 それはいい。人には人の生き方がある。人には人の幸せがある。他の人間が、とやかく言う権利などない。また、読書などというものは、周りの人間が強制するものでもない。そんなコトをしたって何の意味もないコトは、この僕が一番よく知っている。


 正直、究極の読書家などになって、どうなるのかはわからない。

 この世の中に存在するありとあらゆる本の最適な読み方くらいはわかるようになるだろう。その能力が、何の役に立つだろう?史上最高の評論家だろうか?

 僕には、わからない。その能力の使い道はわからないし、そこまでの領域に到達して、どうなるものでもないのかも知れない。


 それでも!それでもだ!たった1つだけ、覚えておいて欲しい!

「君には、神に与えられた才能がある!究極の読書家となれる可能性がある!他の人間達には閉ざされた道が、君の目の前にはまだ広がっているのだ!数多くの読書家達が望んでも望んでも、決して手にするコトのできなかった道だ。これを奇跡と呼ばずして、何と呼ぶのか?」

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