究極の読書家
さて、泉鏡花については、まだまだ語りたいコトもたくさんあるのだが…
いつまでも、そこで止まっているわけにはいかない。先に進まなければ。
というわけで、今回は別のお話。
“理想の読者”の話。あるいは“究極の読書家”の話と言ってもいいだろう。
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“究極の小説家”が存在するならば、“究極の読書家”も存在するのではないだろうか?
僕は、よくそんな風に考える。
実は、いる。それは、実在する。
その名は、ヘルマン・ヘッセ!!
ヘッセと聞けば、普通の人は、小説家あるいは詩人というイメージを持っているのではないだろうか?中には、「誰それ?名前は聞いたことあるけど、よく知らない」などという人もいるかも知れない。
この際だから、覚えておいて欲しい。
「僕が知る限り、彼は、史上最高の読書家である!」
僕もビックリした。まさか、真の読書家などという者が、この世界に存在していただなんて。
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言っておくが、僕は大した読書家ではない。読んでいる本の量も、そこそこだし。ま、それなりに見る目はる方だと自負してはいるが、決定的に“文字を読む”という能力に欠けている。読むんだったら、まだ書く方が得意だ。ちょっとばかし癖のある文章を書くので、人に理解されるのは難しいだろうが、それでも読むのに比べれば書く方が遥かに得意だと自分では思っている。
どちらかといえば、僕の見る目は、もっと直感的に感じる世界で発揮される。なので、映像とか音楽とか絵のような世界の方が得意なのだ。それならば、見たり聞いたりしてわかる。瞬時にわかる。もちろん、ジックリと時間をかけなければ理解できない作品もあるので、全てを瞬時に読み取るわけではないのだが。
それでも、触れた瞬間に「これは凄い!」「これは話にならないな…」「これは、意味はわからないが可能性を感じる!」などの評価はくだせる。
泉鏡花の小説に感じたのも、それと同じ。自分では詳しく読み進めることはできないが、それでも「これは類い希なる作品だな」というのだけはわかる。そこは音楽を聞いたり、絵を眺めたりするのと同じ感覚なのだ。
様々なタイプの物の見方はできる。ただし、文字を読むという行為自体は苦手。なので、文学作品に関しては、イマイチ能力を発揮しづらい。無理をすれば、できないことはないのだが、物凄いエネルギーを消費するので、ヘトヘトになってしまうのだ。
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ま、いい。今回は、その話ではない。僕の話はどうでもいい。
それよりも、究極の読書家の話だ。ヘルマン・ヘッセに話を戻そう。
ヘッセの何が凄いのか。それを説明しなければ。
「凄い!凄い!」というばかりでは、何が凄いのか読者には伝わらないだろう。
ヘッセの凄いところ、それは“視点の数”である。
もちろん、究極の読書家というくらいだから、その読書量も尋常なレベルではない。普通の人が10回生まれ変わっても読み切れないくらいの量の本を読んでいる。本を読まない人と比べれば、100倍とか1000倍の量だろう。
その生涯に、数万冊の本を読破したという。しかも、2度以上読む本もあれば、何度も何度も繰り返し読み返した愛読書まであるというのだから、述べ何冊読んだのかは計り知れない。
だが、そこはあまり重要ではない。ただ単に数を読むだけならば、誰にでもできる。いや、失礼。誰にでもはできない。けど、できる人はそれなりの数いる。
もう1度、言おう。ヘッセの凄いところは、本に対する視点の数である。
「それぞれの本には、それぞれの読み方がある」まさに、それを実践した人!
この世界に、無数に存在する本を、それぞれの作品ごとに読みわけていたのだ。もちろん、ヘッセにも得手不得手は存在した。好みの本と、そうでない本はあった。それでも、それぞれの作品ごとに「ああ~、この本はこういう読み方をしなければならないのだ。そうしなければ、本来のおもしろさが発揮できない」という読み方ができていたというのだ。
その上で、自分の感性に合わないなどというコトはあっただろう。けれども、全く読み方がわからないというコトは、ほとんどなかったという。
ここには、実は秘密があったのだが…
その話は、また別の機会に話すこととしよう。




