泉鏡花という人-2
思い出した。泉鏡花について。
まだ語り足りないコトがあったので、続きを書かせてもらおう。
泉鏡花作品は、鏡花が生きていた当時は、かなり読まれていたらしい。その後も、しばらくの間は人気を博していたのではないだろうか?
けれども、どうやら現代の日本では、あまり数は読まれていないう話だ。“あまり”どころか、“ほとんど”と言った方がいいかも。日本で読まれていないということは、イコール世界でも読まれていないと同義。なぜならば、この人の小説は翻訳をしても何の意味もないからである。あくまで、日本語、それも原文のまま読まなければその価値がわからない。真価が発揮できない。
そう!そこが、この人の作品の最大の欠点なのである。
ただし、1つ擁護させてもらおう。それは、泉鏡花の小説の価値が低いという意味ではない。レベルが低いわけではない。
むしろ、レベルが下がったのは世界の方なのだ!!
通常、こういう作家を評する時に、「あの時代はもてはやされてたけど、現代では時代遅れだよね~」などという評価がくだされたりもする。これは、小説だけではなく、絵でも音楽でも何でも同じ。確かに、そういうコトはよくある。それは認めよう。
だが、この泉鏡花という人の作品は、そうではないのだ。決して価値が下がったわけではない。それどころか、以前と変わらず輝き続けているのだ。永遠に奇跡の輝きを放ち続ける宝石のように!
それは、鏡花作品を読み進めることのできない僕にでも、わかる。さすがに、そのくらいはわかる。
遅れたのは作品ではない。世界の方なのだ。
この考え方、非常にわかりづらいと思う。一見した所、「世界というのは、前へ進み続けている。常に進歩し続けている」と思われがちだ。
けれども、そうとばかりは言えない。ある部分が進歩し、進化した代わりに、別の部分が退化してしまっているというのは、よくあることなのだ。
たとえば、人間の姿を見て欲しい。
昔の人類というのは、全身に毛が生えていたという。まるで、サルやチンパンジーのように。ところが、人類の進化に従って、毛は減っていってしまった。ついには、頭の毛まで減りつつあるという説まである。
全身が毛に覆われていれば、寒冷地でも過ごすことができる。もっと薄着でよかったはず。裸でも大丈夫かも知れない。その代わりに、温かい地域では不便だろう。だから、人類は体毛を減らし、服を着たり脱いだりすることで、環境に対応したのだ。
これは、世界の環境に合わせた変化ではあるのだが、ある意味、退化でもあるのだ。
同じように尻尾もなくなってしまった。尻尾もあれば、何かと便利だったかも知れないのに。
ま、ちょっと、たとえがわかりづらかったかも知れないけれど、現代日本人は、新しい日本語を手に入れたと同時に、“昔の美しい文章”のよさを理解する能力を失ってしまったわけだ。
作品自体の価値は、決して落ちたわけではないのに。その価値を理解できるだけの能力を持った者が激減してしまった。もはや、絶滅危惧種だと言ってもいい。
そうして、僕も、その“理解できない方の人間”の1人なのだ…




