泉鏡花という人
今回は、前回の続き。というか、補足。
“泉鏡花”について。“現代の泉鏡花”ではない。元の方。本物の泉鏡花という人について、だ。
もしかしたら、ご存じない方もいらっしゃるかも知れないので、ここで1つ簡単な説明をしておこう。
泉鏡花というのは、日本の小説家。非常に美しい文章を綴ることで有名。明治から昭和初期にかけて活躍した作家で、師匠は尾崎紅葉という、これまた美しい文を得意とする小説家。
鏡花は、尾崎紅葉のコトを心の底から尊敬しており、もはや、それは“崇拝”と呼べるレベルであったそうだ。
その作品だけではなく、本人についてのエピソードも、魅力的なものが数多く残されている。
さて、ここで1つ問題が発生する。
僕は、泉鏡花という人物をよく知らない。というか、苦手なのである。正確に言えば、人物は苦手ではない。むしろ、非常におもしろい人だったのだなと思う。ただ、その作品が苦手なのである。
本来であれば、自分が苦手な人物について語るのはよくない。それは、わかっている。わかってはいるのだが、語らざるを得ない。
しかも、この「だから、僕は小説家になれない」という小説は、小説を越えた小説である。タブーにも果敢に挑戦する。むしろ、自分からタブーを破りに行く!「やっては駄目だ!」と言われたならば、やるしかない。これは、そういう小説なのだ。
話を戻そう。泉鏡花である。
僕が、なぜ、この人の作品を苦手とするのか、その説明が必要だろう。これは、1度でも鏡花の作品に触れたことのある人ならば、わかってもらえるだろうが。非常に読みづらいのである。
おそらく、世の中には、このようなタイプの文章をスラスラと読める人もいるのだろう。それどころか、「なんという美しさ!これぞ、至高の文学!」などと感動できたりもするのだろう。
だが、残念ながら、僕はそういうタイプではなかった。僕は、選ばれなかったのだ。鏡花作品を理解する能力に欠けていたのだ。
では、「能力がないならば、その能力を身につければいいではないか!」
そのように訴えかけてくる読者もいることだろう。おっしゃる通り。まったくもって、その通りなのである。その通りなのではあるが、これがなかなか骨が折れる。
なぜかというと、相手は明治から昭和初期にかけての文豪。“文豪”という言葉が正しく泉鏡花を表現しているかどうかはわからないが、とにかく、昔の作家なのである。しかも、その時代においても、かなり独自のスタイルで文章を書いていた作家であるらしい。
なので、最低でもその当時の日本語を学ぶことから始めなければならない。これは、大変!
だったら、「現代語訳された作品を読めばいいではないか」
そんな風に考える人もいるかも知れない。そんな人には、僕の方から、この言葉を差し上げよう。
「バカか!そんなコトしたら、せっかくの作品が台無しだろうが!!」
ちょっと言葉づかいが荒くなってしまった。申し訳ない。
けれども、そういうコトなのだ。この泉鏡花という人の作品は、現代語に訳した作品を読んでみたところで、何の意味もない。当時の作風、そのまんまで表現された文章を読まなければ、意味がないのだ。一字一句、変更してはならない。
いくら読書能力に欠けているこの僕でも、そのくらいのコトは、サッと本に目を通せば、すぐにわかる。
だから、難問なのである。当時の言葉づかいを学ぶことから始めなければならないが、それは大変。かといって、現代語に訳されたものを読んでみても、その本来のおもしろさは理解できない。
はてさて、どうしたものだろうか?
僕にとっての泉鏡花とは、そういう作家なのである。