現代の泉鏡花
今回は、特殊な回になるかも知れない。
ま、いつも特殊な回なんだけど。その中でも、いつもとは違った意味での特殊な回。
僕が知っている1人の若者の話さ。もっといえば、1人の天才の話。「現代に泉鏡花が蘇ったら、きっと彼のような文章を書くのだろうな」と、そんな風に思わせる。そう!僕は密かに心の中で“現代の泉鏡花”と呼んでいる。
仮に名前をS君としておこうか?S君は、小説を書く人だ。そういう意味では、僕と同じ。けど、書いている作品は全く違う。
最初に言っておくけど、僕は彼の書く作品は、よく理解できない。ただ、勘違いしないで欲しい。それは、彼の作品の質が低いと言っているわけではないのだ。むしろ、それとは全く逆。レベルが高すぎて、ついていけないのだ。完全に僕の能力不足。理解力不足。
そんな僕から言わせると、彼の書く小説を一言で表わすと“凡庸”
普通っていう意味だね。平凡で取り柄がないってこと。ストーリーも凡庸ならば、設定も凡庸。会話文に関しても、特筆するようなコトは何もない。ま、キャラクターに関しては、いくらか見るべき部分もあるけれども、それでも普通の範疇を逸脱するほどでもない。
エッセイや書評なんかに関しては、かなりいいモノを書いてはいると思う。けれども、こと小説に関しては、全然駄目。ま、点数をつけるとしたら、100点満点で20~30点といったところ。せいぜい、そんなものだ。ストーリーも、キャラクターも、会話文も、設定も、その他もろもろ全部そのくらい。どの能力も、その点数。20~30点!
ただし、1つだけそうではないものがある。それは“表現力”だ。文章力と言ってもいい。言葉の使い方、1つ1つが絶妙なのだ。いや、そんな言葉では表わしきれない。言葉の使い方とか、そんなレベルではない。そもそも、持っている語彙の量がケタ違い!化け物である。その化け物が、自らの感性を最大限発揮して、小説に使用する言葉を選び取るのである。
まさに神が与えし才能だよ。僕なんかが勝てるわけがない。500年修業したって、絶対に追いつけない!仮に、その表現力に点数をつけるとしたら。500点!間違いではないことを示す為に、もう1度断言しておくよ。
「100点満点のテストで500点以上与えられる!!」
S君の書く小説は、一目見ればわかる。
「あ、これ凄いな」って。
一瞬でわかる。“これは修練の歴史”だな、と。
どれ程の時間、血のにじむような努力を続ければ、ここまでの領域に到達できるのだろうか?もちろん、本人としては楽しみながら、ここまでやって来たのかも知れない。けれども、もしも、僕が同じようなコトに挑戦するとなれば、そこには血のにじむような努力が必要となる。それを500年続けたとしても、おそらくあの領域には到達できないだろう。
ただし、意味は理解できない。どうにか苦労しながら読み進めていっても、「凡庸だな」という感想しか出てこない。実際に、意味はないのかも知れないし、僕の理解力が足りないだけなのかも知れない。そのどちらかなのかすら、僕には理解できないのだ。
それでも、彼の書く文章は美しいのだ。まるで極限まで磨かれた宝石のように。
宝石職人が自ら宝石鉱山まで出向き、自分の手で必要な原石を採掘してくる。その上で、膨大な時間をかけて丹念に磨き上げる。そうして、生み出された奇跡の作品の数々。
こんなコトを直接、言葉で伝えたら、間違いなく彼は否定するだろう。
そうして、こんな風に語るに決まっている。
「これは、才能なんかじゃない。単なる努力だよ。僕がやっているのは、過去の文豪や詩人・哲学者なんかが書いた書物を読み解き、それらの言葉を自分なりに組み合わせているだけ。模倣に過ぎないんだ」
バカ!それこそが才能だよ!そんなコト、僕にはできやしない!きっと、誰にもできやしない!この世の中に存在する人類のただの1人もできやしない!同じだけの時間をかけ、同じだけ努力したって、誰にもできないんだよ!そこまでの領域に、わずか十数年で到達するだなんて芸当は、誰にもね!
ま、そんなコトは、彼自身よ~くわかっているだろう。その上で、そのセリフ。それは単なる謙遜に過ぎない。自分では天才だと思っているはずだよ。心の声が聞こえてくるよ。
「どうだ!見ろ!ここまでの領域に、こんな短期間に到達できるかい?できないだろう?だから、僕は天才なんだよ。他の能力はなくとも、言葉の扱い方・表現力に関してのみ自ら自信を持って断言できる。僕は天才なのだ!」と。
そんなコトは、彼の書いている文章を読んでいれば、すぐにわかる。タイプは違うが、彼は僕と同類だ。だから、わかる。心の底から共感できる。彼の書く作品は理解できないけれども、その生き方そのものは、よ~く理解できるよ。彼は、自分で天才だと思っている!
それでいい。それでいいよ。小説を書く者、そうでなければ!そのくらいでちょうどいい。
ただし、それゆえに、あまり多くの人々から理解されない可能性もある。
人としての彼が好きだから、その作品も褒めてくれる人間はいるだろう。いわば、お世辞に近い。そういった人は、作品丸ごと褒めてくるだろう。ストーリーもキャラクターも設定も、何もかもを。僕のように、「他はまるで駄目だが、表現力だけがズバ抜けて突出している」などとは言わないはずだ。
何かを極めようとするがあまり、人々からは理解されない。たとえ、表面的には理解されたように見えても、真の意味で理解されたりはしない。
そういう意味では、彼もまた“僕は小説家になれない”と思い続ける1人なのかも知れない。




