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文学的な文章について考えてみる

 “文学的な文章”とは、なんだろうか?

 ちょっと前に、「文学的な文章と、そうではない文章」の回でも軽く触れたのだけど。今回は、もうちょっと詳しく考えてみよう。


 “文章の目的”というのは、元々、人に伝えることだったのだろう。

 そういう意味では、「いかにわかりやすいか?」「読みやすいか?」それが大切になってくると思う。


 それに対して、文学というのは、もうちょっと特殊なもので。

 「ただ単に相手に伝わればいいか?」といえば、そうでもなくて。中には「内容は全く伝わらなくてもいいから、文章の美しさそのものを見てくれ!」などという、潔いほど、内容を人に伝えることを諦めた作品まである。

 この場合、内容ではなく別のモノを、作者は必死になって伝えようとしているわけだ。文章というよりも、むしろ、音楽や絵の鑑賞の仕方に近いだろう。


 そういう意味では、同じ文章でありながら、全く違う文化であるともいえるのだ。そうなると、その読み方自体も根本的に変えなければならない。

 ここがわかっていないと、おかしなコトになる。同じ1つの作品を目の前にしながら、人によって大きく評価が変わってしまうわけだ。

 人によって評価が違うこと自体は、別に悪いとは思わない。ただ、その作品なりの“読み方”がわからずに、まともに評価できない。これにはちょっと疑問がある。


 なので、作者が様々な伝達方法を試みるのに対して、読者の方もそれに合わせた読み方をする必要がある。

 ところが、これが非常に難しい。おそらく、文章というのは“書く能力”以上に“読む能力”を会得するのが難しいものなのだろう。なぜなら、書くのは“自分の世界”1つを極めればいいのに対して、読むのには“相手の世界”を理解できなければならない。そうして、その相手の世界とは、この世の中に無数に存在しているのだから。

 無数の読み方を会得した“理想の読者”とでもいうべき存在。そんなものが、この世の中に何人くらい存在しているものなのだろうか?

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