現代の太宰治
そういえば、この前、テレビを見ていたら、太宰治という人の特集をやっていた。
そこで、「人間失格」という本の解説が始まった。
解説者が、このように説明する。
「太宰治という人は、自分の人生を小説にした人です。いわば、私小説ですね。この手法自体は、この時代においては珍しい話ではありませんでした。ただし、太宰はそこに虚構を持ち込んだのです。これは、この時代の私小説においてはタブーとされていた行為です」
そこで、僕は「アレ?」と思う。あ、これだ!これは、僕が今、やっている行為だ!「『僕は小説家になれない』シリーズでやっているのは、まさにこれなのだ!」と。
そうか、僕は太宰治をやっていたのか。知らなかった。
期せずして、太宰治の「人間失格」の手法を用いていたわけか。
自慢ではないが…というか、残念ながら、僕はこの太宰治という人の本をほとんど読んだコトがない。
「人間失格」も、1度だけ目を通したことがあるが、その時には大した感動は覚えなかった。せいぜい「あ~、もっと早くに読んでいれば。何年か前に出会っていれば、感動したかも知れないのに。今さら、この本を読んでもね~」くらいの感想だったと思う。そうして、本を放り投げた。その本は、そのまま2度と開かれることはなかった。
「斜陽」だとか「走れメロス」なんかも、1度くらいは読んだと思う。どちらも、強く記憶には残っていない。「斜陽」の方は、「なんだか、サスペンス劇場でやってそうな内容だな。いや、それは、むしろ逆なのだろうけど。こっちが先にあって、その後、ドラマの方がマネをしたのだろう」その程度の感想だった。
「走れメロス」に関しては、もうちょっと感動したかも知れない。「へ~、いい話だな~」くらいは。けれども、しょせん、それも“普通の本”としての感動だ。太宰治でなくても、誰でも似たような小説は書けるだろう。
もっとも、これは僕の感想だ。もっと読書能力のある人であれば、もっとずっといい感想が書けるのだろう。
ただ、今になって思うと、その時にあまり大きな感動を覚えなかった理由がわかるような気がする。それは、「こんなものならば、僕にでも書けてしまうな」と、心の底で感じたからだろう。
たとえるならば、それは“野菜づくり”のようなもので。キュウリを育てている農家の人が、わざわざお店でキュウリを買ったりするだろうか?トマトを作っている人がトマトを買う?たぶん、買わないだろう。
けれども、野菜農家が、お肉は買うだろう。ブタだとかニワトリだとか。あるいは、卵だったり、牛乳だったり。
人は、自分で作れるものを無意識に避けてしまう習性があるのかも知れない。僕にとって太宰治とは、自分で栽培できるキュウリやトマトみたいなものだったのだろう。
そうして、結果的に、似たようなモノを書けるようになってしまっている。もちろん、中身は大きく違うのだろう。ストーリーとか、キャラクターとか、時代とか、舞台とか。どんな内容だったか、細かくはよく覚えていないけれども。あの時代に書かれた小説だ。そういう部分が似ているとは思えない。
ただ、根底に流れているモノは近いのではないだろうか?“自分の人生を題材にしながら、虚構を織り込んでいく”というスタイル自体は。
誰か、両方読んだ人に感想を聞いてみたい。「人間失格」と「僕は小説家になれない」シリーズと、その両方を読んだ人に。「どこがどう違うのか?」「逆に、どこが似ているのか」相違点とでもいうべきモノを尋ねてみたい。
きっと、自分でやると、正しい判断がくだせないだろうし。
僕は、将来、自分が“現代の太宰治”と呼ばれている姿を想像してみる。
…なんだか、スッキリこないな。僕が目指すのは、そんなものではない。もっとずっと先!究極の小説家!小説の神の座であるのだから!
そんな1人の作家を相手に戦っている場合ではない。ここは通過点に過ぎない!




