文学的な文章と、そうではない文章
さて、万人に理解される文章を目指して再出発した僕だが…
ちょっと待った~!!
ここが、もう既に駄目なのではないだろうか?
“万人”が駄目だ。“理解”も堅苦しい。“既に”もNG!この時点で、もう失格!
いやいや、“時点”とか“失格”もいけないな。ちょっと、1行目からやり直そう。
※ここまで、なしね。次の行から、やり直しで。
さて、みんなにとって、読みやすくてわかりやすい文章を書けるようにしようと決めて、新しい気持ちで出直した僕だけど…
なにをすればいいのだろうか?そうだ!漢字を減らそう!できる限り、難しい漢字をなくして、ひらがなばかりの文章にしよう!
ムムム…
これでも、まだまだ漢字が多いかな?
じゃあ、もっともっとひらがなを増やそう!
ついでに、スキマも増やそう!
改行や段落をたくさん使うのだ!
どうだろう?
これで、かなり読みやすくなっただろうか?
うん!いいね!
小学生みたいだね。
どうせだったら、もっともっとかんじをへらして、ほいくえんみたいにしてみようか?
いいね!いいね!
これは、じつによみやすいぞ!
いやいやいやいや!おっかしいだろう、これ!
なんかへんじゃないか?
ひらがなと、かいぎょうばっかりで、ぎゃくによみにくくなってないか?
ちょっと、もとにもどそう!
…というわけで、いつもの文章に戻した僕だったが。ここで、1つ、僕は考えた。
もしかして、“文学的な文章”と“そうではない文章”では、全然タイプが違うのではないだろうか?タイプも違えば、役割も違う。自ずと、その文体は変化していく。
結局の所、重要なのは“何を目的としているか?”なのだ。
万人向けの文章。それは結構。
だが、そこに個性はあるか?オリジナリティはあるか?「この文章は、この人が書いたもの!」と作者の名前を見ずとも当てるコトができるか?
もしも、それができないのであれば、そこに意味はないのではないだろうか?
“自分なりの文章を追求しつつ、その上で人々にも読みやすいように”
それが、かつての僕が目指したものだった。ところが、いつしかオリジナリティを追求するあまり、読みやすさを犠牲にするようになっていた。それはいけなかったと反省する。けれども、せっかくの味まで殺してしまってどうするのだ?
もしくは、“読みやすい文章から始めて、徐々に自分らしさを加えていく”
こういう方法もあるのではないだろうか?
いや、待てよ!この2つは、一見、全く逆の行為にも思える。けれども、実は同じモノなのでは?
たとえるならば、同じ山の頂上を目指す2人が、別々のルートから山を登り始めるようなもの。最終的な目的地点が同じならば、どちらのやり方を選んでも構わないのではないだろうか?
だったら、これまで通り、僕のやり方を貫き通しても構わないのでは?
ちょっとだけひらがなを増やして、改行と段落を増やして、読みやすくする程度で。いや、“程度”は難しいから、“くらい”で。
決めた!
これからは、ちょっとだけ漢字を減らして、ひらがなを増やそう!
それと、改行と段落も増やしてみよう!
これくらいで、ちょうどよさそうだ。これが、僕と読者の妥協点。オリジナリティがあって、読みやすい文章の形!
…なのだろうか?
※とりあえず、しばらくの間、このやり方でいってみます。




