どうして、僕はプロの小説家になれないのだろうか?
この辺で、もう1度、考えてみよう。
“どうして、僕はプロの小説家になれないのだろうか?”と。
細かい問題は多々あるだろう。能力的にも至らない部分はいくらでもあると思う。けれども、決定的なのはそこではない。
決定的な理由。それは、“読者のコトを考えていないから”だ!
僕は、小説を書く時に、読者のコトをあまり考えに入れない。あまりというか“ほとんど”と表現した方がいいかも知れない。そのくらい読者のコトを考えない。だけど、それが読者の為になっていないかといえば、そうではない。
今回は、その辺について詳しく語っていこう。
僕の書く小説というのは、読者が先にあるわけではない。少なくとも、“読者が読んでいて、いかに気持ちよくなれるか”を想定して書かれた小説ではない。そうではなく、“作家として、いかに難しいコトに挑戦しているか”を主たる目的として書かれている。
だから、読者の方が合わせてくれないと、なかなかそのおもしろさが理解できない。“ああ!こんな難しいコトに挑戦しているのか!”とか“これは、他の小説ではやっていないな。少なくとも、これまでお目にかかったことがない”などという読み方をしてくれないと、おもしろさがわからないだろう。
では、これは読者の為になっていないだろうか?
否!断じて否!実は、これこそが最も読者の為になっている小説なのだ。
なぜだと思う?
それは、この方法が一番読者の能力を上げてくれるからだ。
小説を読む目的は、人によって様々だろう。それはいい。その辺は、個人の自由だ。ただし、目的に合わせて、読む作品を変えなければならない。ここは譲れない。
たとえば、読み終わって“ああ~、楽しかった!”と思える作品があったとする。あるいは、読んでいて爽快感を感じるとか、感動するとか、そういった一時的な楽しさを与えてくれる作品。もちろん、そこからも得るモノはあるだろう。
だが、それ以上に得るモノが大きい作品というのがある。
それは何か?それは、怒りだ。あるいは、反論だ。
“なんだ、この野郎!”とか“こんなバカな話があるか!”とか“そうじゃないだろう!ここは、こういう考えに決まっている!”などと反論したくなる作品。それこそが、読者の能力を上げてくれる作品なのだ。読者の心の底に眠っていた感情や考え方などを表に引き上げてくれる。
あるいは、もっと異質な作品。これまで見たコトも聞いたコトもないような小説。読み方すらわからない小説。だが、もしも、その読み方がわかったとしたら?理解できたとしたら?それは、新たな能力の獲得だ。読者に新しい能力を与えてくれる小説。読んでいると、読者のレベルを上げてくれる小説。それこそが、最高の作品!!
だが、そういう小説は、読んでいて楽しいとは限らない。爽快感も感動も何1つ与えちゃくれないかも知れない。けれども、確かに存在するのだ。この世界に!そのような小説は!
僕が目指しているのは、そういう小説。読者が読みたがっている小説ではない。むしろ、全く逆!いかに読者の予想を覆すか?読者が望んでいない方向へもっていくか?そればかり考えて暮らしている。作家として、いかに難しいコトに挑戦するかというのも、その表れなのだ。
もちろん、僕だってエンターテインメント性の高い作品も書いたりする。だが、必ず何かしらの奇抜さは織り込むようにしている。“ここが他の小説との違いなのだ!”という部分を最低でも1つは含ませて描くようにしている。
だから、僕はいつまで経っても、プロの小説家になんてなれはしないのだ。




