未来について考える
僕は、よく未来について考える。
たとえば、それは、“50年後、100年後に、この世界はどのような姿をしているだろうか?”というようなコトでもあるのだけれど。
文明とか文化とか、人の生き方とか考え方とか、そういったもの。
その時代にも携帯電話屋スマートフォンのようなものは存在しているのだろうか?
それとも、もっと別の形に変わってしまっているのだろうか?たとえば、テレパシーとか、それに近いものに。
100年後の人々は、やはりテレビを見ているのだろうか?さすがに、ラジオは絶滅してしまっているのか?新聞は?インターネットは?そもそも紙の本なんて超高級品となっているかも知れない。
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ま、そのようなコトもよく空想してみたりする。
けれども、もっと頻度が多い空想は、こういうもの。
“この人は、この世を去ってから50年後、100年後に誰かに覚えてもらっているのだろうか?”
それは、家族とか親戚とか友人とか。あるいは、道行く人だったり、テレビに出演している有名人だったり。もちろん、この僕自身に関してもそうだ。
僕の名前は忘れられてもいい。それは構わない。
けれども、僕の生み出した作品達はどうだろうか?
50年後、100年後、500年後、1000年後…何らかの形で残っていたりするものなのだろうか?
もちろん、その気でやっている。常にそのつもりで小説を書いている。
でも、実際に、そうなるかどうかはわからない。その時代になるまで生き延びるか、タイムマシーンにでも乗って確認しに行かなければ。
それでも…
それでも、この時代において、それを確かめようと、精一杯に空想の翼を広げてみる。そうやって、未来世界に自分を飛ばして、確認してくる。
それは、同時に過去を探る作業でもある。過去に生まれた数々の作品達。それらの中で、この現代にも残り続けている作品達に触れてみる。そうして、なぜ、それらの作品達が、現代に残り続けているのか、その理由を探る。
こうして、僕は“未来を見通す目”を手に入れる。
けれども、それはまだ完璧ではない。その精度をより高め、正確性を増す為に、僕は今日も同じ作業を繰り返し続けるのだ。