小説はパターン化させるべきか?否か?
時々、小説の書き方がわからなくなってしまう。
“自分で自信を持って書いていて、それでも評価されない。読者に伝わらない”それはいい。それならばいい。
もちろん、読者に伝わるように努力する必要はあるだろう。けれども、それと“いい作品であるかどうか?”は、また別の問題なのだから。少なくとも、自分で絶対の自信を持って小説を書けていて、後から読み直してもそう思えるならば、それはいい。それは1つの立派な作品だろう。
そうではなく、自分で書いていても、よくわからない。上手く書けているかどうかもわからないし、おもしろいのかどうかもよくわからない。
それではいけない。
あるいは、書いている時には「最高の作品だ!」と思いながらやっているのに、書き終わってから読み直してみると、そうでもない。「何がおもしろいのかサッパリわからない」というのでは困る。
ただ、こっちの方は絶対に駄目とは限らない。読者にも能力の差というモノがあるし、精神状態や体調によっても左右されるだろう。なので、後から読んでおもしろさがわからなかったからといって、落胆すべきかどうかは微妙。
“よい書き手”であるというのと“よい読者である”というのは、全くの別ものなのだから。自分で書いた小説のよさを、後から読んでみて理解できないということだってあり得る話。
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小説を書いていてよく考えるのは、“いかにパターンを外すか?”
ただし、これを外し過ぎると、逆によくない。読者がついてこれなくなってしまうからだ。
小説というのは、“ある種のパターン”に従って読んでいくもの。だから、そのパターンが完全に失われてしまうと、読者にとっては非常にやっかいな代物と化してしまう(もちろん、それはそれでオリジナリティのある作品にはなるだろうが)
というわけで、ある種のパターンに従いつつも、同時にパターンから外れた作品を書かなければならない。これは相矛盾する行為だし、非常に難しい。けれども、これができるようにならなければ、読者に受け入れられるおもしろい小説というものは、なかなか書けない。
そんなわけで、僕はいつも考えるのである。
“いかにパターンを外すか?”そして“いかにパターンに従うか?”を。