小説の書き方がよくわからなくなってきた…
混乱している。
何が何だかよくわからない。
けれども、決して迷っているわけでも悩んでいるわけでもない。ただ、わからなくなってしまったのだ。
何がわからなくなってしまったかって?
それは、“小説の書き方が”だ。
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昨日まで、どうやって小説を書いていたのだろうか?
さっきまで、どうやって小説を書いていたのだろうか?
よくわからない。
よくわからないけれども、どうにか小説を書くコトはできる。
パソコンの前に座れば、うっすらとアイデアが浮かんでくる。その日、その時、書くべきストーリーが自然に思い浮かんでくる。
それは、2~3行のあらすじだったり、いくつかのキーワードだったり、その時々によって形は違うのだけど。とにかく、書くべきストーリーの骨格は浮かんでくる。
そうすれば、次は書き出しだ。書き出しの2~3行さえ決まってしまえば、後はスラスラと続いていく。
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ついこの間までは、こういった作業を、もっと頭を使ってやっていた。でも、今は違う。
全く頭を使わずに書いているわけではないのだけれど、それでも感性に従って書いている部分が大きいとでも言えばいいのだろうか?“ただ、なんとなく書いている”のだ。なんとなく書いて、いつの間にか完成している。そんな感じ。
たとえるならば、以前はもっと難しいゲームをやっていた。将棋とか、シミュレーションゲームとか、そのような感じ。
「ここを攻めるために、あらかじめ、この駒をこっちに移動しておくか」とか。
「先を考えると、この兵器を生産しておかないと。その為には、ここの工場の技術ランクを上げておかないと。さらに、資金も必要だ。どこかで、大量の資金を確保しないと。だったら、こっちを節約するか」とか、そのくらいのコトは頭の中で考えながら、やっていた。
それが、今は、目の前の敵をひたすら倒している感じ。
「あ、ゾンビが出た!撃たないと!」と思った瞬間には、既に撃ち終わっている。
「あ、ブロックが落ちてきた!あそこにはめないと!」と思った時には、上から落ちてきたブロックをはめ終わっている。
いや、もはや、それすら考えていないかも。考えるまでもなく行動し終わっている。
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これは、1つの進化なのかも知れない。
あまり難しいコトを考えずとも、小説を書けるようになったという。そういう意味では、進化に違いない。
けれども、同時に危うさもある。
いつ小説が書けなくなってしまうかわからないという危うさだ。
その日は、ある日突然やって来るだろう。明日かも知れないし、今日かも知れない。
“なんとなく”でやっている時は、危ない。
なぜ、それができているか、自分でもよくわからずにやっているからだ。
とりあえず、今日の分は書き終えた。
次は、明日だ。
明日も小説は書けるだろうか?
よくわからない。そこに不安もある。
よくわからないけれども、やってみるしかない。
明日もまた、パソコンの前に座ってみよう。
もしも、それで同じように書ければよし。
駄目ならば、駄目なりに何か手を考えるしかない。