小説に必要なのは、技術の上達なのだろうか?
小説などというものは、書けば書くほど上手くなっていく。技術は上達していくものだ。少なくとも、「上達しよう!」と意識しながら書き続けていれば。
だが、それで何かが解決するだろうか?読者に近づける?むしろ、読者からは遠のいていってしまっているのではないだろうか?
技術の先には何もない。あるのは、ただの虚しさだけ。
そこに魂がなければ、何の意味もない。
技術はオマケに過ぎない。補助能力に過ぎない。技術だけでは、真の作品には到達できない。もっと大切なモノがある。それは、魂だ!情熱だ!それを込めなければ、抜け殻だ!
だが、逆はある!技術など全くなくとも、魂や情熱のみで傑作は生み出せる!!
もちろん、魂も込められ、技術もある。そういう作品もある。けれども、技術を崇拝し過ぎた者の作品は、大抵、魂が抜けてしまう。抜け殻になる。それだけは、なってはならない。
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その昔、アンリ・マティスという画家がいた。
そのマティスに、ある日本人画家が会いに行った。素晴らしい技術の持ち主だった。彼は、マティスのコトを尊敬していた。
そして、実際に会い、自分の描いた絵を見せると、マティスにこう言われた。
「君は、上手過ぎるよ」
つまり、技術に頼り過ぎていて、魂がこもっていなかったというわけだ。“自分らしい絵が描けていなかった”と言い換えてもいい。
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そのマティスも、ピカソの新作は理解できなかった。後に、「アヴィニョンの娘たち」と題された作品である。マティスは、その作品を初めて見た時に、こう酷評した。
「なんだ、この絵は!?これは酷い!!こんな酷い絵は、これまで見たことがない!!私は、断言する!!この人生の全てを賭けて、この絵の酷さを世に広め続ける!!」と。
もちろん、ピカソというのは技術も凄かった。その上での、その行為である。
にしても、だ!単純に技術のみを追求し、そこで満足していれば、成長は完全に止まってしまっていたことだろう。それを恐れず、せっかくの技術を捨ててまで、新たな技法に挑戦した。それは、ある意味で技術とは全く反するモノだった。そうして、それを手に入れた。新たな境地に達したのだ。
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大切なコトなので、もう1度言っておこう。もっと別の言い方で。
「技術に甘んじていてはならない!そこは通過点に過ぎない。技術など補助能力に過ぎない。メインの能力はもっと別にある!魂を込めよ!熱き情熱を!そうすれば、技術は自然とついてくる。たとえ、ついてこなかったとしても、それはそれで素晴らしい作品となるだろう!」