この小説は、2つ目と3つ目の読み方を誘発しやすいようにできている
ここで、ヘッセの話をしよう。ヘルマン・ヘッセの話を。
なぜ、「ヘッセの読書術」の話を10日も前にしたのか?その話だ。
ヘッセは、読書には大きくわけて3つの方法があると語った。そうして、どれか1つの読み方をするのではなく、この3つの読み方を常に移動しながら読むべきだと言った。それは、誰であろうと同じ。どのような読書家であってもそうだ。
3つの方法とは、このようなもの。
1つ、作者が書いた通りに素直に読む。
2つ、作者に反論しながら読む。
3つ、それ以外の読み方。
物凄く簡単に説明すれば、この3つ。
もうちょっとだけ詳しく語ってみよう。すると、こうなる。
1つ目の読み方は、作者が意図した通りに読者が読む。たとえば、ヒーローが活躍するタイプの小説ならば、ワクワクしながら読む。主人公がピンチに陥れば、ドキドキしたり不安になったりする。そうして、最大のライバルを倒しヒロインを助け出した瞬間に「やったー!」と心の中で叫び、満足感にひたる。
2つ目の読み方をする読者は、そうではない。主人公よりも、むしろ、悪役の方に心惹かれてみたりするだろう。そうして、そのような悪役を生み出した社会情勢に不満を抱く。主人公がヒロインを助け出した時に「な~んだ、結局こうなるのか…」と落胆してみたりもする。この読者は、本に書いてあるコトだけを見たり考えたりしているわけではない。実際には、そこには書かれていないのに、そこにある文章を何倍にも広げて読んでいるのだ。
そして、3つ目の読み方。これは、2つ目の読み方をさらに発展した読み方なのだが、説明が難しい。もう、何でもありだからだ。もはや、元の本すら必要ないくらいのレベルになってしまっている可能性も高い。
ヘルマン・ヘッセ自身も、3つ目の読み方は非常に難しいと言っている。
ただし、生涯で1度でもこの読み方に到達した者は、それ以外の読み方に戻ったとしても、それまでとは全く違う世界を、同じ本に見出すコトができるようになっているのだと、そう語っている。
*
で、話は、この小説に戻る。
この作品は、一見した所、ストーリーらしいストーリーもなく、あまり小説らしくないように思えるかも知れない。もちろん、それは“わざと”そうしてある。
その理由は、ヘッセの読書術において2つ目と3つ目の読み方を誘発しやすいようにできているからだ!
この小説は、いたる所に、読者が反論したり、この本を放り出したくなるような仕掛けが施してある。早い人ならば、1ページ目を開いた瞬間に、そう感じてしまうだろう。そうでなくとも、ほとんどの読者は、途中のどこかの段階で、そう思うはず。
もちろん、そこで読むのを諦めてしまうのも、読者の自由。けれども、そこを我慢して読み続けた読者は、いずれ新たな境地に達することができるだろう。そうして、“新しい本の読み方”を会得するのだ。
この本は、最後まで素直に読んではならない。それどころか、作者に反発しながら読むべきなのだ。やがて、それは単なる反発には留まらず、対話にまで進化していくことだろう。この小説を書いている“作者との対話”へと。
「作者は、こんな風に書いているけど、それはちょっとおかしいぞ」
「僕だったら、こんな風に考えるけどな~」
「世間一般では、全く逆のコトが言われているのに、どうしてこの人は、こうも反対のコトばかり書いているのだろう?」
「私だったら、こんな風に書くのにな~」
と、こんな感じで、意見が言えるようになってくるはず。それに対して、この本は答えてくれる。さらなる解答を用意しているつもりだ。
それと、特に最後の「私だったら、こんな風に書くのにな~」これは重要。
これをもっともっと進めていけば、第2の読み方だけに留まらず、第3の読み方へと進化するコトが可能だろう。さらには、読み手のみに限らず、書き手としての能力も上がっていくはず。
ここまで読んできた読者諸君なら、わかるはず。
ここから先は“自分なりの読み方”を追求していかなければならないというコトを。あるいは、以前の章に戻って読み直してみるのもいいだろう。そうしたら、新たな発見があるかも知れない。
そうして、人生の内に何度も何度も読み返してみるのだ。すぐにでなくてもいい。何年も経って、大きな成長を遂げてからでも構わない。その時に、この本は以前とは全く違った姿で、君らの前に現われるだろうから…