this is a ――
フィニは耳を疑った。
神典とは、文字通り神の教典である。
機械近代化の現在、神は意味を成さない。
あらゆる現象は科学で解明され、今や神という言葉すら存在しなくなった。
医療で治せない病気はないし、行けない場所もない。整理された世界では飢えで苦しむ事もなく、幸福は管理される。
全てが理に適っていた。
やむなく起こる宗教や価値観による相違の戦。
科学技術が浸透し、全てを理論で証明できる世界に不必要なモノが二つ存在した。
言語と宗教。
言葉の方は技術の進歩により、全てが翻訳されて今に至る。
個人の認証アカウントを示す、生体チップで翻訳できる言語は地球上ほぼ全ての人語と、他、地上には存在しえない謎の言語がいくつかを可能だった。
生体チップを取り出せばどの言語で話をしているのか分かるだろうが、1歳になる頃にはナノ化して体中に拡散しているため全て取り除くのは不可能である。
最も難を窮めたのは、宗教の方だった。
元々大小会わせて1000万は信仰宗教の数があった。
それを統一するためにまずは全ての不確かな信仰、神というものが削除対象となった。
数千年誇った最大の宗教も例外ではなかった。
当然反発も大きく、世界戦争が3度発生する。
3度目の戦争が終わりを迎える頃、50億はいた世界総人口の2割ほどしか存在しなくなっていた。
神話は削除される。争いの原因も責任も全て信仰に背負わせて。
神の記述に関するもの全ては、およそ100年前に葬られた。焚書として存在すら許されてはいない。
はずだった。
だが、今しがたそれが発見された。
ソーンの仕事は人の幸福平均を管理するだけではなく、世界の均衡をも保たなければならない。
「まったく、どうしてそんな面倒なものが……」
渋面で頭を抱える。
パーソナルウィンドウの言語解析機能を利用すれば、現在の科学力であればどんな低級なアプリだろうと内容を読み解くことは可能だろう。
そしてそれを読み解いて感じるものがあれば、その世界にただならぬ思慕を馳せたとすれば、今の世界に疑問を抱く鍵となるだろう。
ディロードという青年の記憶を消去して平穏を取り戻さなければならない。
そして神典をも消し去る必要がある。
パーソナルウィンドウを右手で払う仕草をすると、薄青色のスクリーンがくるりと反転し、薄紫色に変化した。
ソーンとしての管理者権限を実行する。
「対自加速の実行、世界時間の緩行を実行」
『Recognition』、と文字が表示されて弾ける。
世界の時間が止まった。正確には止まったわけではなく、止まったかのようにごくゆっくりと時間が流れる。
灰色のソーンは緩慢世界を走り出した。
止まった世界の中、一人だけ風を切るように駆ける。
普通に世界の時間が動いていたとしても、目視することは叶わず突風が通り過ぎたようにしか知覚できない。
目的の座標へと到着する。
金糸の髪に、藍色の瞳。
どこか高貴な雰囲気が漂うも、ほおにそばかすのある少年だった。
少年もやはり動きは止まり、濡れた本を開いて眺めていた。
その目には驚嘆と好奇心に満ちた光が宿っている。
知ることは悪ではない。
無知も然り。
だが偶然とはいえ、彼は触れてはいけない一節を手にしてしまった。世界の根幹を揺さぶるほどのものを。
少年の横顔に向けて手をかざす。手のひらにじんわりと淡い熱さを感じたが、それほどなくして処理を中断する。手をかざしたまま相手の顔を再度まじまじと見つめる。
幼い少年だ。
彼に目に宿るのはただの好奇心のみ。
僅かに首を傾げる。果たしてこの少年をいま、ここで処理してしまっていいのだろうか、と。
人体の組成から気象に至るほぼ全てが管理されたこの世界において、外界からの刺激はあらぬイレギュラーを発生させる要因になりかねない。長い年月をかけ、駆逐された「神」なる類はまさにそれに当たる。
灰色のソーンは短い単語を口早に唱えると、右目に熱を帯びる感触を覚えた。
右目が薄緑色に光り、視界に少年の示すパラメータがいくつか表示される。
ディロードという少年の電気信号が活発化している。好奇心による刺激が、体になんらかの反応を与えつつあるという証拠でもあった。
彼はどのような人生を生き、どのような暮らしをしていたのだろうか。
小奇麗な成りからして、わりと裕福な家の子だろう。
苦労を知らなそうなその柔和な顔は、少年が幸福であると容易に想像できた。
少年の1時間前の幸福値は78という数字を示している。規定値に達した後は、下降に転じるだろう。そういう世界の規定が適応される。
――万人に幸福と不幸を平等に。
どうしてそのような理になっているのかは、この世界の創造主にしか分からない。そう、神でもない限りは。
78という少年の幸福値。
しかるのちに学問の専攻を進み、望んだままに就職するはずだったろう。
彼という人間を、容易く消去してもいいのだろうか。
決して多くはない上限の設定されたソーンという存在からは、幸福値は下降するしかない。それは数々の権限を行使し続けるために致し方ないことであった。
そして幸福値がなくなってしまった時、ソーンである自分は誰からの認識されることなく、その生命を終えるだろう。
まるで最初から居なかったかのように――。
そこまで脳裏を巡らせて、頭を振る。
私はソーンだ。ただ世界を正すためだけに。
灰色のソーンは再びそばかすの少年に向かって手をかざす。
手のひらにはじんわりと帯びる熱を感じた。
薄緑色の右の視界に右からスライドされたコマンドが3つ並ぶ。
『Continuation』『Memory elimination』『Delete』。
一番右側の正方形のボタン、『Delete』を指でなぞる。
その瞬間、少年の体は無数の正方形の亀裂が走り、四散して空気中に溶けた。
ソーンの右手は無慈悲に少年を消し去った。
表示されていた固有IDが消滅していく。
マレイヌ・ディロードという人間は、この世から完全に消えた。
一度目を閉じ、再び開くと、薄紫色のウインドウも消えていた。同時に、ソーンから普通の少女へと戻っていた。
時間の流れも戻り、景色が色づいていくのがわかる。
先ほどまで少年がいた空間には、何事もなかったかのように水面がうねり、風が吹いていた。
これほどのマイナス幸福値を持つものを処理したのだ、おそらくフィニの幸福値もすぐに消滅するだろう。
そして私は何者でもないものに戻るのだ――。