can you speak?
5時起床。
決まった時間に目が覚める。
これも体内に埋め込まれたチップやら何やらのお陰であり、影響でもある。
それを嫌い、人間としての尊厳を、などとクーデターが起こった時期もあった。
遙か過去の歴史だ。
今ではこの生活がごく当たり前となっている。
酸味が強めのグレープジュースを飲む。
朝に飲むのがなんとなく日課となっていた。
クリーンルームに入り、身体と服の汚れをキレイにする。
服を脱いで湯船に浸かる、なんてことはしなくていい。
着衣のまま設定ボタンを押すだけで、全身を一瞬で無菌状態へとしてくれる。
多少、オゾンの匂いがするのが難点だった。
目が覚めて10分、家を出る。
生活のほとんどが機械やデータと入れ替わっても、山などの自然はまだ残っている。
今フィニが登っている山道もそうだ。
自然がそのまま残された、竹の雑木林の中を歩く。
緩やかな坂道の小脇には小降りのピンク色の花が顔を覗かせる。
雑木林を抜けると、やや広めの空間に出る。
そこには自然らしからぬコンクリートがあった。
幅2メートル、高さ1メートルほどの、四角いコンクリートの塊。
塊の下には錆びたレールが敷かれていた。随分と古く、使われていないものだ。
同じ材質の階段を上り、フィニはコンクリの上に立って真っ直ぐに正面を見た。
開けた世界があり、海が見え、自分の街が一望できた。
そして空は深い青とオレンジが混ざりこんでいる。
右手を水平に薙ぐと、パーソナルウィンドウが開いた。
その中の一つのフォルダを開き、階層の深くまで進んでいく。
星を模した背景にハートが描かれたアイコンに触れる。
ピコン、と音がした後に次の文章が表示された。
≪hello. Happiness value is 37 until today. good luck...≫
それを確認すると、パーソナルウィンドウを収納した。
公園の緩やかな風とは少し違う、塩気を含んだ空気が鼻孔をくすぐる。
あれから1日が経った。
だが近所で人身事故があったニュースなどは入ってきていない。
いつも通りの朝だった。
混ざる朝焼けは深い青が薄れていく。
頭を振って、真っ直ぐに前を見た。
開けた海、その手前には街。
道はない。線路の向こうは途切れているから。
少女はその方へ走っていった。
錆びた線路を飛び越え、幾幅もない地面を駆ける。
少女はたんっと地を蹴った。
ふわりと浮いた身体は、急速に落下を始めた。
跳んだ最上位置から地面までの距離はおよそ10メートル。
加速度を増して落ちていく。
身を切る風の音が鋭く、どこか心地良い。
落下と共に加重を増し、落ちる方とは逆に身体が潰れるような感覚に陥る。
このまま落ち続けれたらどんなに楽だろうか。そんなことも考えた。
だが――
≪stund up≫
地面との距離80センチほどの位置で足下に幾何学模様が光った。
文字というよりパズルに近いそれが現れると、身体の落下も止まる。
空中で一時留まり、ゆっくりとアスファルトの上に足をつける。
街の外れ。
ほとんど人も寄りつかない郊外だが、この時間、他の人間は眠っているだろう。
そんな大道芸みたいなことをやっても、特に周囲を気にすることもなかった。
明るみの増してきた空を見上げながら、フィニはぽつりと吐き出した。
「二人分はやはり、少し疲れるな……」
眉根をひそめ、改めて疲労感を感じた。
全身に鉛をつけられたかのように、重い。
おそらく今日一日、ろくに動くこともままならないだろう。
「あの阿呆は相変わらずまだ寝てるだろうな」
阿呆とはニクルのことだ。
いつもニヤケ顔の、超がつくほどのお人好し。
お人好し故に他人に好かれるのだが、お人好し故に、一度死んだ。
そしてフィニがそれを『無かったこと』とした。
ニクルは死んでなどいないし、相手の人間も死んでない。
周りの人間もそれを『見なかった』。
「とんだイレギュラーだよ、まったく」
首を斜め後ろにもたげる。
薄く開いた目に朝日が飛び込んでくるが、眩しくてかなわない。ちょうど水平の向こうから太陽――として作られた人口の巨大電光体――が顔を覗かせる。
思っていた以上に身体が疲れているようだった。
いつものベンチで眠るとするか。
「今日こそ少しは寝かせてくれよ……」
そう祈って歩を進めた。
公園というのは至って平和だ。
気候のブレもないし、心地よい噴水の音や甘い花の香りは脳を癒してくれる。
そしてブレない鬱陶しさに辟易していた。
「なぁフィニ、見てくれよ。今日はこんなでっかい魚をもらえたんだぜ」
「……あー」
「なぁフィニ、聞いてくれよ。今日さ、配達先のじいさんとこいったらさ」
「……んー」
「なぁなぁ、フィニ」
「あ゛ー、うるさい!!子供かお前は!」
「そんなに怒らなくたっていいじゃんよー」
眠気と苛立ちの中、思考を働かせる。
創り直すときにどこか間違えただろうか。
それともエラーが残ったままなのか。思わずぽつりと漏らす。
「元々鬱陶しい奴だったが、こんなにうざったい奴だったか…?」
「ん?何か言ったか?」
「黙れ、面倒くさいやつめ!」
そう言い放つといじけて大人しくなった。今日は冷たい、などぶつくさ言っていたが無視した。
とりあえず何も考えずに休みたかった。
手でニクルを追い払うと、そのまま瞼を閉じる。
公園のベンチは快適な環境に設定されている。
風も、気温や湿度も、まったく不快感はない。むしろ心地良いくらいだ。
木の温もりのあるベンチに一人陣取り、空を腕で遮った。
ようやく静かになった。
小鳥の囀りが穏やかに眠気を誘う。
何かエラーがあったとしても、対処はあとで考えよう。
日が落ちるまでの少しの間、眠りについた。
記憶、という曖昧なものは存在しなかった。
自身であるという証明も右手の腕輪のみだ。
記憶喪失、とは違う。
それは元々記憶というものを所有している場合のみ有効だ。
彼女の記憶はごく最近作られたものだった。
恐らくあの男と出会ってから。
この世界の幸福平均値を整えるためだけに存在する彼女に。
幸福平均値。
それがこの世界をとりまく規律であり、知られざる法である。
人間一人には幸福の値が決まっており、その数値は人類全て平均化される。
おおざっぱにいえば、このような例がある。
ごく普通の生活を送っていたサラリーマンがいた。
目立った特徴もなく、特技などもない。
ごく普通のお人好しで、ごく普通の小心者だった。
ある給料日の帰り、たまたま仕事帰りに宝くじを購入。
その宝くじが当たり、一気に億万長者として世間へ名前が知られることになる。
彼は親戚にも友人にも集られ、財産の全てをむしり取られる。
結局は絶望のどん底へと立たされた。彼に見合わないだけの幸福だったのだ。
幸福は平均化される。
ある者はスラムに生まれ、ゴミの掃きだめのような場所で育った。
毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際。盗み、殺し、拉致、そういうものは日常茶飯事。
この世界や生きる人間は、そこいらに転がっているゴミと同じものだ。掃き溜めにいる人間も、それを見下す人間も、結局はゴミと同じだと。
だがある日、奴隷の働き手としてとある資産家の家に連れてこられた。
風呂場で溜まった垢を落としたところ、そのあまりの容姿の美しさに資産家が見初める。
一夜にして莫大な富を得た。彼女はようやく幸福を得たのだった。
幸福は平均化される。
その全ての幸福は、管理される。
政府、警察、犯罪者、一般人、身分生まれに関係なく、その定義は適応される。
そして幸福平均化を管理代行するものがいる。
人に知られることのないその代行者たちはソーンと呼ばれ、幸福平均を管理するノルニアの直轄下にある。
それがフィニの仕事である。
人を越えた力を許され、人と同じ人生を許された。
だが人智を越えた力である平均化の仕事。
それなりにリスクを伴うものでもある。
平均化を行使された地区の時差の調節。さらに人の生命や生き方、文字通り運命そのものを扱う事となる。
ノルニアに牙を剥くことはないが、ソーンには制限が設けられる。
その指標が、「Happiness value」と呼ばれる数値。幸福値とする。
ソーンにはそれぞれ、100前後の幸福値が割り振られる。
そして与えられた任地でそれぞれの平均化なる仕事を行う。
その数値は、文字通り多ければ多いほど幸福であることを示す。
だが平均化処理を行う事で、次第にその数を消費していく。
幸福ではない、ということはその存在が薄れていくことと同義。
ソーン達は人に紛れて暮らしていくが、値が0に近づくにつれて自然と彼等を覚えている者がいなくなる。
それがノルニアに管理された世界であり、この世の全てなのだから。
「・・・ニ。おいフィニ!」
五月蠅く名前を呼ばれるので、深い思考の渦から意識を掘り起こす。
緩慢な動きで身体を起こそうとした。
上半身だけ起きあがるも、全身に鉛をつけたみたいに身体が重かった。
意識に身体がついていかない様に顔をしかめる。
「おい、大丈夫か?」
声のした方を見ると、情けないニクルの顔が覗き込んでいた。
ニクルの言葉の意味が分からなかったが、気がつくと肩で呼吸をしていた。
瞳孔は開きっぱなしで全身から吹き出した汗で服はぐっしょりと濡れていた。
「何が」
「何がって、お前……うなされてたぞ」
「うなされていた?……私がか?」
「あぁ。良く聞き取れなかったが、世界がどうたらとか」
世界が--。
「他に何か、いってたか?」
「いや、何も……」
虚気な顔でしばらくニクルを見ていたが、目を伏せ、ふっと小さく鼻で笑う。
「……なぁ、ニクルよ」
「ん?」
「お前には私がどんな風に見える?」
「どんなって、……んー、普通の女の子じゃねぇか」
普通の女の子--。
「く、ははは!そうか。……いや、それでいい」
そう、それでよかったのだ。
「どうした?どこか痛いのか?!」
「馬鹿め。至って私だよ」
思わず出た高笑いがようやく収まり、いつも通りの皮肉を返す。
そう、今はそれでいいのだ。
いずれ自分が消え去ろうとも、忘れ去られようとも。
世界は「これでいい」。
フィニは自嘲気味に笑う。
すると、頭にぽんと手のひらが乗っかった。
「大丈夫か?」
ニクルが怪訝そうに覗き込んできた。無表情に睨み返す。
世界はあるようにあればいいのだ、とフィニは独白して、煩わしい頭の手を退けた。
「問題ない」
仏頂面で答えたフィニを見て、軽やかな笑い声をあげるニヤケ顔。
「そうか、その調子なら問題ねぇな」
もう一度フィニの頭をグリグリ撫でた。本人から「縮むわ!やめんか!」と怒鳴られたのでやめた。
「じゃ、また明日な」
「気が向いたらな」
軽い足取りでニクルが去っていったあと、振り返り噴水を見る。
夕日に染まった水の色は、哀愁と優雅さを織り交ぜたような雰囲気を漂わせていた。
薄い灰色のパーカーもオレンジに上書きされている。
耳のイヤリングに触れる。
「認証」
ヴン、と重たいものを振ったような音がして半透明のスクリーンが映し出される。
もちろん、フィニにしかそのスクリーンを見ることは出来ない。
≪ゴキゲンヨウ、フィニ≫
聞こえてくる声に感情は感じられない。フィニも機械的に、端的に伝えた。
「今日のイレギュラーはあったか?」
≪対象ヲ照合――。『マレイヌ・ディロード』18歳。残リ幸福値ハマイナス50012デス≫
「………は?」
機械音声は再び名前と幸福値を繰り返した。
「一体どうしてそんな数値になった…。理由は?」
≪20キロ先ノ河川敷ニテ、神典ガ入ッタ箱ガ見ツカリマシタ。早急ニ回収シテクダサイ≫
「なんだと!?」