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愛する娘、イザベルへ

 小さな街で学び舎を構えていた初老の紳士、ペドロ=セルジオ。彼は愛する子供達のために自らを犠牲にした、歴史にその名を残す英雄である。彼の死は人々に悲しみを与え、けして忘れてはならない悲劇の記憶として、今でも街に住む人々の間で語り継がれている。そんな彼は処刑台に登る直前、ある一通の手紙を人知れず遺していた。「愛する娘、イザベルへ」―― そう書かれた手紙の中には、彼自身が綴った物語が眠っていた。歴史にその名を輝かせる英雄が隠し持っていた、あまりにも悲しい真実。「愛する娘、イザベルへ」―― 彼女がこの手紙を読んだ時、何を思うのだろうか……

『愛する娘、イザベルへ』


「愛する娘、イザベルへ。私がこうして処刑台の上から手紙を寄越すことを赦しておくれ。君がこの手紙を呼んでいる頃、私は既にこの世にはいないことだろう。君をたった独りきりにしてしまったことを、本当に申し訳なく思っている。どうかこれから先は、強く、強く生きておくれ。結局のところ、人生は孤独なものだ。私の人生も、思い返してみれば孤独なものだった。私の母は、私を産んですぐに無理が祟って死んでしまった。父もそんな私を憎んだのか、執拗に私を傷つけた。私は人の親の愛情と言ったものを全く信じることが出来なかった。私の幼少時代は、常に孤独の冬に覆われていた。だから私は、他の者達に負けないようにただ学び続けた。文字を学び、言葉を学び、数字を学んだ。歌を学び、絵画を学び、医学を学んだ。しかし、ただ学ぶだけの人生というものもまた、孤独だった。そして、蓄えた知恵を見込まれ飛び込んだ学問の世界もまた、孤独だった。人々は皆“仮面”を被って私に近付いてきた。彼らは皆、私の向こう側にある富という輝きを見ていたに過ぎなかった。世の理を学べば学ぶほど、私は孤独の深淵に追い込まれていった。

 だから私は、生まれ育ったこの街で学び舎を構えることにした。子供達の無垢な眼差しは、私の孤独を洗い流してくれるようだった。私の学び舎には、実に様々な子供達が訪れた。迫害されている者、病を患った者、天涯孤独な者。私はどんな子供が訪れようとも、等しく学び屋に招き入れた。私が蓄えた知恵は、こうした無垢な子供達のためにこそ使われるものだということを知っていたからだ。一切の見返りが存在しない、純粋な知恵の応酬。それこそが、私が見つけた約束の地だった。子供達は時に私のことを父と呼んだが、私は自分が父と呼ばれることを喜ぶべきか迷った。私が知っている父親と、子供達が慕う父親とはあまりにかけ離れているものの様に感じたからだ。しかし結局、私は私を父と呼ぶ子供達を抱き締め慈しんだ。それは、私が失った幼い時代をやり直す意味があったのかもしれない。


 学び舎を開いて何年か過ぎた頃、門の前に一人の赤ん坊が棄てられていた。生まれたばかりのその赤ん坊は衰弱しきっていて、危険な状態だった。私は急いで救命処置をして、その赤ん坊を抱き締めた。これまで多くの孤独な子供達を見てきたのに、その赤ん坊を抱いた時には何故だか涙が止まらなかった。私は、無垢な子供達のためならば無償の愛を注ぐことが出来た。だから、私がその赤ん坊を自分の手で育てるということにも、何の疑問も持たなかった。それから私は、眠れない日々を送った。時には学び舎の子供達も私を手伝ってくれた。無償の愛に、無垢の愛に包まれ育っていくその少女は、この世で最も幸せな子供に見えた。ところが、それと同時に私の心の中の悪魔が首をもたげ始めたのだ。その少女が、私に見せるものと同じ笑顔を他の子供達に向けるたびに、私の心が少し痛んだ。子供が単なる愛玩人形ではなく、自我を持って成長することを私は知っていた。けれども、その成長と言う名の剥離を私は俄かに受け入れることが出来なかった。如何なる知識を学んだといっても、赤ん坊を育てたことなど無かった。私はやはり人の親と言うものにはなれるはずがないことを知った。男と女が出会い、互いを愛し、やがて子供を作る。そうした自然な循環は、私にとってはおよそ無縁なものだった。私は所詮、独りの孤独な人間に過ぎなかったのだ。


 あれは、雨が降る寒い朝のことだった。私が眼を覚ますと、少女が裸で何かをしていた。雨に濡れた仔猫を抱いて、自らの乳房に押し当てていた。行き倒れとなった仔猫を拾い、母親になろうとした少女のその姿は、私の眼には聖母のように映った。かつて、私を産んでしまったことでこの世を去った母親。孤独な私にとって、最も遠いといえる存在に、少女はなろうとしていた。その瞬間から、私はその少女を無垢な子供として見られなくなってしまった。そして、醜い本能が少女の肉体を欲するようになった。どんな知識を試しても、そのあまりにもどす黒い本能を抑えることは出来なかった。子供達は相変わらず私を慕ってくれたが、私はその少女を直視することが出来なくなっていた。そのことで少女が見せる寂しそうな表情を見るたびに、私は密かにむせび泣いた。いったい、私はどうすればよかったのだろうか。誰も幸福になれない、冷たい地獄のような日々が繰り返された。少女はやがて娘となり、内に秘めた聖なる母性も、日を追うごとに大きくなっていった。私が与えた知識と、世間から自ずと学んだ知識によって、娘は実に聡明な才女となっていた。いつからか娘は、私の孤独な生き方にも小言を挟むようになった。彼女に自分のような孤独な人生を歩んで欲しくなかった私は、彼女の成長を心から喜んだ。そして同時に、無垢から乖離しつつある彼女を繋ぎ止めたいと願った。

 そんな私の幼稚な葛藤も、賢い娘には全てお見通しだったというのだろうか。ああ、なんと恐ろしいことだっただろう。ある晩、娘は私の体を求めてきた。私の人生から孤独を取り去ろうとせんがためだったのだろうか。彼女に生まれつき備わっていた、聖なる母性がそうさせたのだろうか。私が彼女の母性に苦しんでいたように、彼女も私の無償の愛に苦しんでいたのだろうか。私は幼子のように泣きじゃくりながら、求めて止まなかった娘の純潔を奪い去ってしまった。娘もまた幼子のように涙を流しながら、本能のままにその身を穢していった。相思相愛で結ばれるべき男と女であるが、よりにもよってこのような形で結ばれようとは思ってもみなかった。まどろむ娘の傍らで、私は夜通し震え続けていた。純潔を奪うことが、純潔を失うことが、これほど恐ろしいことだとは思わなかった。本当の意味で、私は無垢な子供達と向き合うことが出来なくなってしまった。


 それからしばらくして、さらに恐ろしいことが起こった。私が断罪される日がやって来たのだ。いつかと同じ雨が降りしきる寒い冬の夜。学び舎を訪れたのは、痩せこけた亡者のような男だった。正気を失った獣のような眼光で、男はただ一言、娘を返せと言った。その短い言葉から全てを悟った私は、脱兎の如く男の前から逃走した。愛すべき聖母を、誰の手にも渡すわけにはいかなかった。しかし男もまた、その聖母を私から奪い取ろうと執拗に追いかけてきた。絶望に深く染まった、奈落のように冷たい眼光が、私の目の前に迫っていた。愛を欲していたのであろう男は幼子のようにむせび泣きながら、一方的に言葉を捲くし立てた。わが子を棄てたその日から、一日も欠かさず人知れず学び舎を訪れていたこと。遠くから眺める娘が成長していくたびに、後悔の念と罪悪感に苛まれ続けていたこと。無垢な幼子から聖母へと変わり、そしてたった一夜で尊い純潔を散らしたその瞬間にも、常にその男はそこに居たのだった。正気を失ったその男は、目の前の私をひどく罵ったあと、私を殺すために掴みかかってきた。何がどうなったのかは思い出せないが、気が付けば男は私の足元に転がっていた。取っ組み合いの末に、どこかを強く打ったのだろう。こうして私は、人殺しの罪で処刑台に登らなくてはならなくなった。かつての教え子であった子供達や、私をよく知る街の人たちも、私のことを庇ってくれた。誰もが、私には何の罪も無いと訴えてくれた。そのままであれば、あるいは私は助かったのかもしれない。しかし、私は処刑台を拒まなかった。私の選択に、人々は嘆き悲しんでくれた。全ては無償の愛がなせる業だと言ってくれた。私の素性を全く疑わずに、私を聖人君主のように評価してくれた。私の暗く冷たい孤独な人生も、最後はとても暖かい愛に包まれていたのだと、今になって思う。


 私はこの真実を、命とともに彼岸に連れて行く。けれども、ただ一人、君にだけはこの真実を伝えよう。君の人生を弄んでしまったことを、本当に申し訳なく思っている。どうか、私という呪縛に囚われることなく、その気高い心のままに凛と生きて欲しい。君はきっと、世界中の人に愛される女になるだろう。君という娘を持ったことは、私にとって唯一の誇りである。君がこれからも生きてゆくこと、それが私の生きた証である。君の永久の幸福を願って。 ――ペドロ=セルジオ」


【後書き】

 童話と言うよりも、物語そのものを伝記風にアレンジすることもできるかと思います。これまでの作品には無かった前書きを利用しました。歴史に名を残す英雄にも、普通の人間としての生々しい苦悩やらがあったと思うと、なんとも切なくなります。一日一日の苦悩やらと、もっと真剣に向き合ってもいいんじゃないかな、と思います。

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