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呉の総司令官

 長きにわたる長期戦で、双方とも疲れの色が見え始めていた。その季節は、暑くなる夏を迎えようとしている。


 そんなとき、呉では…(黄武元年六月の頃)。

 連戦連敗の状況の中、僅かな反撃を見せただけでは、呉の重臣たちは、安心しきれないと思っている者がほとんどである。

 もちろん、国家の最高権力者である孫権自身も、頭を抱える始末であったことは変わらない。

「どうしたものか…」

「蜀の攻勢は、止めることは不可能と思われる」

 孫権はつぶさに不安をほのめかす。それから間もなくして、建業の大会議場に諸将が集まることになった。

 大会議場は騒然としていた。集まった文官を含め、諸将たちは、この場において蜀の攻勢に恐れをなし、驚愕の想いをあらわして落ち着くすべもない。

 そのざわめいた雰囲気に、孫権が重い口を開く。

「今の状況を、どうにか出来るものはおらぬか…」

 その声を聞いたカン沢が、議席から立ちあがり孫権の所までやってくる。大会議場にいる、諸将を見渡しカン沢は切りだす。

「この場において、何を恐れるか!」

「呉には、この国家の存亡の危機に対処できる鬼才が埋もれておる…」

「なぜ諸君は、この急務に、その人物を呉王に勧めて大敵である蜀を破ろうとはしないのか!」

 この一言は、その場はますます混乱することになる。

「そのような者が、何処におるのか?」

 大会議場には、ざわめく声が響き渡った。


 それから、しばらくすると、孫権がその騒ぎを制す。

「静まれい!」

 孫権は、複雑な表情を浮かべて、その男のことをカン沢に問いただす。

「我が呉下に、そのような大気量に匹敵する人物がおるのか…」

「予は、そんなことは聞いたことがないぞ!」

「今は、呉にとって、存亡の危機の時。もし呉を興すことが出来るような真の大才が野におるならば、我はその者を躊躇なく迎えるであろう」と、

 その者が誰であるか、カン沢に問いただす。それほど、人材の発掘が急務である状況であった。

 カン沢は、それに応えて、その者を推挙した。

「今は、まだ無名ではありますが…」

「余人ではありません!」

「それは戦場に数回赴いている陸遜であります!」

 その声を聞いた諸将からは、溜め息と嘲笑ちょうしょうの声すら聞こえてくる。

「………?」と、孫権は首を傾げた。諸将は、騒然と非を囁いている者もいる。

 中でも張昭と顧雍などは、顔に苦笑いを浮かべて、こもごも反対したのである。

「呉の柱になる人と仰がれた人は、その初めを周瑜公とし、次いで魯粛公がこれを継ぎ、先頃までは呂蒙公を以って、国家の大事にはこの人ありと、皆、信望していたものでございますが…」

「―ところが、今は呂蒙も亡く、国家の存亡を若輩である陸遜に託して良いものかと…」

「不安に思いますが!」

 張昭が切りだした。続けて…。

「陸遜は元来、文字の人であります。軍事には何の取り得はあるとは思いませぬ。それに若年であり、世の中の儒学を学ぶものと同様で、軟弱であると思われます…」

「どう贔屓ひいきにみても、敵の大軍を破るほどの才は感じとることが出来ないのです!」

「要するに、彼を用いることに、それ事体が具の骨頂と考えることが出来ます」

 顧雍が、想いを孫権に打ち明けた。その他にも、反対者はずいぶんと多かった。

 しかし孫権は、その並みいる反対意見を退けて、陸遜を呼び寄せることにした。

「陸遜を呼べ!」と、大至急の命令が下ることになる。

「もし陸遜に、その大才がないのであれば、私めの首を献上する覚悟でございます!」

カン沢が孫権に、その意思の覚悟を告げていた。

「よくぞ、そこまで言い切った。

しかし、そればかりでない。孫権にとって、呂蒙が日ごろ口にしていた、言葉を思い出しての決断であったのである。

 呂蒙は云っていた。

(陸遜には、余人には解からぬ見所がある…)

 以前、呂蒙の代わりに荊州の境の守りに、大抜擢したことがあった事を思い出していた。

「どこか、見どころのある人物に違いあるまい…」

 孫権は天を仰いでいる。


それから、しばらくすると、陸遜が急いで建業にやってくる。

「陸遜でございます…」

「急いで、こちらに帰ってきました!」

そして、呉王の孫権に謁した。孫権は口を開く。

「汝、よくこの存亡の危機に、応える自信はあるか!」

 緊張の面持ちでいる、諸将の前で…。孫権は、総司令官になるべき陸遜を見つめる。

「今は国家の存亡の時、辞すべきではありません。これより、謹んで大命を拝します!」

 その一言で、陸遜は覚悟が出来ていた。さらに陸遜は続ける。

「御自ら、大命を降した以上は、これで十分と思われますが…」

「願わくば、文武の諸大将をことごとく召して、盛大な儀式を執り行い、その上で御命令の剣をお授け願いたい」

………………………………………………………………………………

 劉邦の時代、蕭何の韓信の推挙と似ている…。

「韓信は国士無双であり、他の雑多な将軍とは違う」

「この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と、劉邦に返した。

これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにしたのである。

この韓信の推挙によりときも、盛大な儀式が執り行われたと云う事である。

………………………………………………………………………………

 孫権は、この故事をよく聞いていた。

「ほほう、韓信に習うと云うか…」

「よし、承知する!」

 孫権は、快く承知した。


 それから暫くして、建業の城の庭に盛大な祭壇を築かせ、文武百官を列して、式部・楽人を配し、陸遜を祭壇の上部に昇らせることとなる。

 そして呉王孫権自ら剣を授け、また白旄(古代の旗のこと)、黄鉞(天子が将軍に征討を命ずるときそのしるしとして授けた物)、印綬、兵符などすべてを任した。

「これより、陸遜を封じて大都督護軍鎮西将軍となし、ならびに婁侯るこうの称を贈る…」

「以降は、すべてを統括し、六郡八十一州と荊州すべてを総領せよ!」

 陸遜にとっては、破格の待遇である。


それから、陸遜が新たに総司令官として、戦場へと挑むと云う噂が広まると、呉の前線基地の諸将は不満を口にした。

「あの青二才に、大都督護軍将軍を任せるとは、一体何事であるか!」

「あんな文弱である輩に、この呉軍の総指揮が出来ようものか…」

「まったく、カン沢の勘違いにも程がある!」

 主戦場の諸将は、つぶさに勝手なことを云い放って呆れかえっている始末であった。

 その緊張感のない場所に陸遜が赴任した。

 荊州諸路の軍馬を招集し、新手の丁奉と徐盛を伴って、威風堂々と総司令部に新営の旗幟をひるがえした。

 しかし、従前からいる諸将たちは、皆あえて従わない姿勢を見せていて、あえて陣幕を訪れて、挨拶に来る者は皆無であった。

 それでも、陸遜は少しも気にかけることはなく、日を計って、

(軍議を開くにより、参陣すべし!)という、通告を出した。これには、さすがの諸将も断ることが出来ず、それらは軍議場に集うしかなかった。

 その諸将らが軍議場に集うと、陸遜は一番高い将台に昇って、諸将らを見据えてこう伝えた。

「自分が建業を出るときは、呉王は私目に印綬と宝剣を授け、全軍の指揮を任せたのである。もし、配下に乱す者あれば、これを斬って諸軍を引き締めよとまで仰せられた」

「自分は、この呉王の信任に応えるべく、己を顧みることなく、一身に務めたいと思う…」

「私は、これなる覚悟でここに、赴任した訳である!」

 陸遜は覚悟の言葉を述べて、味方の内にある根拠なき妄説を粉砕し、それに宣言を付け加えた。

「軍中は常法なり。各部隊はなお一層、軍律を厳しく守ってもらいたい…」

「もし背く者がいれば、敵を破る前に、内部の賊を処断する!」

 と、語尾を強調して高らかに宣言している。

 諸将は、騒然として不満顔をならべている。するとその不満組である孫桓が、仏頂面で陸遜に問いただした。

「我が、戦場で孤立した際、陸遜殿は動きもせず静止していたではないか!」

「なぜ、あの時動かなかった理由をお聞かせ願いたい…」

 その横にいる周泰も続けた。

「それに、今のこの現状で、大都督殿は大計をお持ちなのか…」

 陸遜は、二人の進言を問題にしなかった。

「夷陵のひとつの城は、枝葉にすぎない!」

「それに孫桓は、よく部下を用いると考えたから、協力して守り抜くことと考えていた…」

「急に救わなくとも、その場で判断できると思ったのだ!」

 それを聞いた諸将は嘲笑い、その場を退散していくことになる。

 特に、韓当と周泰は、

「果たせるべきもなく、この人は無策の愚者…」

 とまで、云い放っている。


 すると次の日に、大都督の命で軍令が下ることになる。

(城門を堅く閉ざし、あえて進むことは許さぬ!)

(それに背き、門より出て闘うことを禁ず)

 諸将は憤慨した。その不平不満をみなぎらせ、大都督のいる陣屋に殺到したのである。

「馬鹿を申すな!」

「我々は、この戦場に闘いに来ているのである…」

「連敗続きではあるが、皆、命を捨てる覚悟ぐらいは出来ている!」

「何故に、この場において、動くなと軍令を出すのか?」

「いくらなんでも、呉王の命で赴任した総司令官が、あまりにも消極すぎてはどうにもならん…」

 終いには、呉王の選任の過ちをぶつける者もいた。

「自分は、書生の文官上がりに過ぎないが、呉王に代わって諸将に軍令を下す者である。これ以上、異論をさしはさむべきは、何者たるを問わず遠慮なく処断して斬り捨てて軍律をただす!」

 諸将は皆、沈黙して動く者はいなかった。その言葉を聞いた諸将は、陸遜の陣幕を去っていった。しかし、誰一人として陸遜に従った者はいない。

「青二才め、権力を持って、あのような威張った態度を持ちたくなったか!」

 諸将は、不平不満を露わにして失笑する者がほとんどであった。


 そうしているうちに、張飛の怪我はあったが、蜀の陣営ではなおのこと意気盛んである。コウ亭から夷陵に渡る広大な地域に、陣を築いているそれらの面々は、昼夜のこと気勢を上げている始末である。

 そんななか、新しい呉の陣営の大都督が赴任したという一報が、陣屋にいる劉備に届くことになる。

「呉軍の総司令官が、陸遜という無名の者に代わったそうだが、そちはその者を存じておるか?」

 劉備は矢継ぎ早に、幕下にいる馬良に質問した。

「敵は、非常に大胆な人材を登用したものです。陸遜は江東の書生で若輩ですが、かの呂蒙が先生と敬って、決して書生扱いにはしなかったと聞いております…」

「油断の出来ない、類い稀な人物であると思います!」

 馬良は、陸遜に関しての情報を、くまなく劉備に伝えている。

「何故、それほどの才能のある人物を、呉では、用いることが出来なかったのか…」

 劉備が疑問を投げかけた。

「恐らく、誰もそんな気量があると、心より見抜く者が居なかったのではないでしょうか…」

「さすがに呂蒙は、目が高かったと見え、早くから彼を用いています…」

「呉軍が、荊州奪還の時、関羽を一敗地に追い込んだのも、呂蒙の策ではなく、陸遜の策謀と思います!」

 馬良は、語尾を強め劉備に進言した。

「何!」

「そうであれば、真の敵は陸遜ではないか…」

 劉備は顔色を変えた。

「何故、そのことを今頃伝えるのだ!」

「朕にとって、怨敵ならば、かくなる上はその旗印を折ってくれようぞ…。すぐ進軍の準備をせよ!」

 劉備は血気に焦る。

「お待ちください。熟考を!」

「陸遜の才は、呂蒙に劣ることなく、周瑜の下ではありません…」

 その言葉に、劉備は顔色を変えて。

「汝は、この劉備の兵略が、江東の知恵者に及ばぬと申すか!」

 馬良は、諌める言葉もなく引き下がる。それから劉備玄徳は、諸将に軍令を発し、陣営を押し進めることになる。

 劉備は、この陸遜の知略の鋭さを見抜く術を知らなかった。


つづく。


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