戦況の変化ともう一つの仇(1)
連戦連敗のなか、奥地へと蜀の侵攻をゆるしている呉の陣営では焦りの色が出始めていた。
理由は簡単である、復讐に燃える蜀の勢いは、止まることを知らないまま、なおも一層、勢いに乗っている状況であるからだ。
しかし蜀の陣営は、兵力が分散している有様で、統率性を欠きはじめていることに劉備は自らの焦りの色で気が付いていない。
そして、一番の問題は、長期の遠征による度重なる疲れと、補給線の確保を如何にするかである。
その事に関してが、頭痛の種であったことは、参謀の馬良を心から苦しめている状況である。
「ここまで、長期化するとは、予想を裏切る展開である!」
その状況を心配している張飛は、諸葛亮のいる漢中に馬良の弟の馬謖を派遣して、戦地での事の細かくを伝えようとしていた。
その馬謖の護衛には、新参の王平が選ばれ、馬良の指示に従っている。そして一路、漢中を目指して夷陵の地を離れてく伝達役の一行は、準備を整えて、臥竜の待つ場所を目指してゆく。
「弟の馬謖が、諸葛亮様にご意見をお聞きに参ったのには、私の想いもありまする」
状況を冷静に見つめている馬良でも、攻勢に焦る劉備を諌める言葉は心に届いていない。
「劉備様は、冷静さを欠いておられます。行動に、充分にご用心くださいませ!」
連戦連勝の攻勢とはいえ、一瞬の油断が危険をはらんでいることに馬謖は、用心するようにと馬良に耳打ちして戦地を去っている。
そんななか、魏の曹丕は中立の立場を決め込んで、ずる賢き獣のように高みの見物を装っていた。
呉と蜀の双方が、必死にも総力戦を繰り広げる最中、総大将に歴戦の勇士の曹仁が選出され、合肥に駐屯させている。
彼は時至れば、濡須に進行して、呉の側面を衝こうと兵馬を鍛え上げている状況下であった。
曹丕は、閣議場に武官・文官の諸将を集め、呉と蜀の状況を備に連絡させて、事の状況を詳しく把握するべく、敵地に諜報を廻らしていた。
その時、蜀の状況を告げる伝令がやってきた。
「申し上げます。物見の状況によれば、劉備は連戦連勝を重ね、呉の敵地に深入りしているようです」
「それに主力は、陸地と水路に分散しているようで、一瞬の油断次第では大いなる危険をはらんでいます」
「それに蜀の陣営は、陸地に五十箇所の陣を連ね補給線をたどり、水路には黄権率いる一隊が数百里に連なっている有様です」
伝達役は、事の詳しくを、事細かく述べると、使命を終えた安堵感を覚え、その場を早々に立ち去ってゆく。
「劉備は、戦のやり方を焦る状況下で、取り戻せぬ事の重大さに、気が付いていないではないか!」
「この一戦、劉備は自ら首を刎ねる気か。戦を知らぬ訳ではあるまいに!」
「関羽の恨みを晴らす一念が、事の判断を狂わせたようだ。老いも事の是非を狂わせるとは、劉備は自ら墓穴を掘ってしまった!」
手を叩きながら、曹丕は不敵な笑みを浮かべ、やがてはやってくる魏の侵攻を確信している。
「この状況を、合肥の曹仁に伝えよ!」
曹丕は早急に、伝令を伝えるべく、劉曄を呼び寄せた。
「劉曄、夷陵の戦いは、呉の大勝に終わるであろう。そのとき、呉の油断が生じることになる」
「その隙を狙って、曹仁に濡須への総攻撃を命ずる!」
そして、文官の一人、劉曄が現れ、伝達役として合肥に赴いてゆくことになる。
「今より、合肥に赴き、事の状況を曹仁さまにお伝え申します」
早急にその場を立ち去った劉曄は、意見を具申することもなく、己の仕事に従事してゆく。
内心、曹丕のずる賢いやり方には、曹操の面影を垣間見ることがある。しかし、冷酷で非常なやり方に劉曄は大いなる不満を抱いていた。以前、曹操が生前の時は重用され、意見を具申すれば聞いてもらえたことが多かった。
それに比べ、曹丕は兄弟を冷遇し、僻地に派遣している状況である。また、何処か好きになれぬ暗愚な性格が、その行く先に暗雲を作っている。
「いずれ、魏は内紛で崩れ去るであろう!」
友人である、老骨な賈詡にそう言い残すと、劉曄は悲しげな表情を浮かべ、曹丕のいる閣議場を出て行った。
賈詡は、その不穏な言葉を曹丕に伝えることもなく、閣議場を早々に立ち去っている。
「この賈詡も、老いた老骨である。いまさら、つまらぬ讒言をしたところで何の得になろう」
閣議場を出た賈詡は、月を見上げ、長らく生きらえた日々を思い出しているようである。
その怒涛のような人生は、晩年を迎えた老骨なる名軍師の風格が、いっそうその生き様を伝えているかのようであった。
季節は春を迎え、桃の花が咲いている時期である。思えば、遥か遠い記憶の桃園の誓いが目に浮かんでくる。懐かしいと思った、劉備は張飛を従え、桃の木が茂る丘陵で一時の休息を迎えていた。
柔らかな日差しの中、誓いを語った桃園は昔の思い出の中にある。その記憶を辿ってみたいと思う。
黄巾軍対策の義兵を募集している高札の前で劉備がため息をついていた時である。
「大の男が世のために働かず、ため息をつくとは何事だ!」
その状況を見て、声をかけてきたのが、身長八尺(約一八四センチ)、今は部類の名将と云われる張飛であった。
「自分がため息をついたのは、己れの無力に気付いたためだ!」
劉備はそう言うと、張飛はそれなら自分と一緒に立ち上がろうと、桃園の下で酒に誘うことになる。
訪れた酒場で彼らは、身長九尺(約二〇八センチ)、 髭長二尺(約四十六センチ)、赤ら顔と見事な髯を持つ一人の偉丈夫、すなわち今は亡き関羽と出会い、意気投合することになる。
「我ら三人、姓は違えども! 兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん!」
「上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を誓う!」
張飛の屋敷の裏の桃園で義兄弟の誓いを交わした三人は、彼らの呼びかけに応じた者達と酔いつぶれるまで酒に興じたという。
あれから、月日は流れ去った。気がつけば、髪には白いものが交じっている。
そして、約束を交わした関羽は、もう此処には存在すらしない。
「なぜ、我を置いて、逝かねばならぬ!」
「約束を叶える時は、もうそこまで来ている」
劉備の顔色には、計り知れない悲しみの感情がみえている。そう思うから、止めずにここまで従う張飛が、今回が最後になるであろうかもしれないと覚悟を秘かに決めていた。
連敗続きの呉の陣営では、陸遜が総大将に選任される丁度、一か月前の時期である。
戦いの状況が芳しくない自陣の守りに着いている呉の兵卒には、蜀の関羽の配下として働いている面々も見受けられた。
その敗軍続きの状況下で、敵陣に寝返った士仁と糜芳が先陣にあった。
糜芳は、劉備の夫人(糜氏)の兄である。劉備が益州に入った後、荊州総督である関羽の配下として南郡に駐屯し、公安を守る士仁と共に荊州の防衛を任された。
しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。
二一九年、関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行うだけで、全力で支援しようとしなかった。
また、南郡城内で失火事件が起こり、軍器がいささか焼失した事があった時である。
これらの不始末を聞いた関羽は糜芳に伝える。
「わしが凱旋した後に、このことをわが君に報告し、汝を容赦なく処罰するぞ!」
怒りを顕わにして、糜芳を激しく咎めた。これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安であったことはいうまでもない。
その後、孫権配下の呂蒙が、南郡攻略を開始すると、糜芳ははじめ城に立て籠って闘う覚悟を決めていた。
しかし、先に降伏した士仁が呂蒙といるのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて呂蒙に降伏したのである。
その両名は、呉の陣営にあり、蜀の兵と対峙していた。その両名を覗う人物がいた。
士仁に降伏を勧めた張本人の虞翻である。今の蜀の勢いを止める、立役者の士仁と糜芳の可能性を秘かに見据えていたのである。
孫権に謁見するべく虞翻は、この二人に声をかける。
「この蜀の攻勢時、呉への忠誠を示す良き好機である。両名には先陣に立って、一働きしてもらいたい!」
糜芳と士仁には、二心はなかった。
蜀を裏切った罪は重い。そう恥じる心の中には、晴れて戦場で散る覚悟があった。
賀斉に配属された糜芳は、最後の活躍する機会を探していたのである。
「ありがたき幸せ!」
孫権にその異心のなき事を伝えると、ひとこと虞翻は進言した。
「士仁は、降伏の際に涙を流しております。それに比べ、糜芳は蜀の重臣でありながら、誇りや威厳などありませぬ!」
「簡単に裏切った糜芳は、信用ができませんが。先陣で華々しい死を与えるというのは如何でしょう」
「あくまで、戦わせるのです。両名の死に際で、その違いがお分かりになりますぞ!」
「それに、怒って進軍する蜀に対する罠を仕掛けることができます」
「士気を上げるべく、復讐に燃える蜀の将を討ちとる好機と云えましょう」
「士仁と糜芳の後ろには、狙撃兵を忍ばせれば一網打尽でしょう」
蜀の怒りに向ける盾の役に、士仁と糜芳は運命的に選ばれた。そして、出陣の式典を華々しく終え、意気揚々と両名は戦場に赴いてゆく。
「わしは、死に際に関羽様に謝罪の言葉を述べたい!」
そういう士仁と、対照的に糜芳は少しばかり浮かれていた。
「やっと、呉の将として出陣できる」
一般兵卒に身をやつしている状況が、この一戦において一変した。今や、兵を率いる呉の将軍となったと、浅はかな想いを抱く糜芳の愚かさが自らを墓穴に入れこもうとしている。
劉備の率いる一隊と、士仁と糜芳のいる賀斉の率いた遊動部隊は猇亭の手前で激突しようとしていた。
蜀の物見は、呉から進んでくる一隊の報告をいち早く、張飛に伝えていた。
「なに、裏切り者の士仁と糜芳が、賀斉の一陣におるのか!」
「これは、我らにとっては最高の好機。是非、劉備様の前で討ちとり、蜀の士気を上げたいものじゃ!」
少々、頭の弱い張飛には、呉の虞翻の罠など気がつく術はなかった。その油断が、危険へと結び付けていくかのように運命は動いていたかのようである。
一線を交えるべく、呉の後方には歴戦の将たちが配置される。恨みに燃える周泰、もう一人の仇である馬忠、先の戦で敗戦を喫して再起に燃える孫桓、そして兵馬を整えた韓当、最後にその状況を冷静に観察する陸遜が続いていた。
つづく。