猛暑に道を誤りて
太陽は夏めき、じりじりとした炎天下の中で、蜀と呉双方の睨み合いは延々と続いていた。
陸遜が総大将に任命されてからは、呉の陣営では不満がありつつも、無駄な戦力の消耗を避ける持久戦がおこなわれていたのである。
いわば、無駄な戦闘を避ける籠城戦を繰り広げることになる。
蜀の陣営では痺れを切らし、弱卒を前面に展開させたり、わざと油断を見せて敵をおびき寄せようとしたこともあった。
気の短い性格の張飛なども、敵をけしかけ、挑発を繰り返すこともしばしば見受けられたのだが、いっこうに戦火は開かれることはなかった。
「いつまで、呉の陣営は、土竜のように城に立て籠もり、戦闘を交えないのか!」
「怖気づいた、呉の連中は亀のように首を引っ込めておるわ…」
呉の様子をうかがう、蜀の陣営からは、張飛の命で罵る言葉が浴びせられている。
しかし、その言葉を悔し紛れに聞く、呉の陣営の武将たちは…。
「くそ、今に見ておれ…」
と、繰り返しながらも、心の中で感情が入り乱れ、自問自答している始末であった。
「云わせておけばよい、いつかは必ず好機がやってくる!」
陸遜が、苛立つ諸将等を嗜めている。
その頃、劉備は蜀の陣営でひとり焦っていた。
ピクリとも動かぬ、呉の陣営の闘いぶりが、見るからに変わっている事を痛感していたという他はない。
「どうしたものか?」
劉備が、側近の馬良に漏らすが。
「どのようにけし掛けても、陸遜のこと、動くとは思えませぬが…」
馬良は繰り返す。
「これも、ひとつの手の内なのでしょう」
「奴は、冷静沈着な輩です」
「簡単に動じないところを見ると、長期戦も覚悟の上ですな…」
その場に、いつもより冷静な張飛がやってくる。
「兄じゃ! 呉を誘いだす方法は、万策尽きておる状況です」
「ここは、一旦後退して、陣営の立て直しを計っては如何でしょうか?」
張飛に思えぬ言葉である。馬良などは口を開けていた。
「何を申す!」
「この期に及んで、引き下がれとは…」
「このわしを、愚弄する気か!」
逆に、冷静さを欠き、いきり立つのは劉備であった。
その筈である。関羽を葬った張本人の陸遜を目の前にして、むざむざと引き下がることは、劉備にとっては屈辱以外の何物でもない。
「ですが、兵卒らは、かなり疲弊しておりまする…」
以前の張飛なら、このような言葉を漏らすことはなかったであろうと感じられる。
「兵卒らは、呉の陣営の消極策で、まともに闘っているわけではない!」
「十分な休息をもたらしているではないか」
劉備が意気込むも。
「しかしながら、この暑さでは兵卒は皆、疲弊しておりますぞ!」
暑さと云う問題が、蜀の陣営にひしひしと露呈しはじめていたのである。
張飛の劉備に対する讒言は的を射ていた。
「さがれ、考えることにしよう…」
劉備は、張飛を睨みつけると下がるように命じた。いとも簡単に追い返された張飛はその場を立ち去ってゆく。
追い返された張飛は、廊下を歩きながら、受けた矢傷を撫でている。
「兄じゃも、焦りからか…冷静さを見失っている」
「以前の劉長兄では、あのような言葉は吐いたりはしない!」
完全に、思考が狂いだしている劉備のことを、陰ながら案じている張飛は、心を痛めている様子である。
張飛は、矢傷を治療させるべく名医を求めていた。
「この矢傷を治療できるものは、華佗しかいないが…」
「その華佗も、あの曹操に殺されてしまった」
半ば、矢傷を負い。
その命の幾ばくもない事を張飛は痛感していた。
以前、関羽が同じように矢傷を負い、華佗の荒療治を受けた記憶は懐かしい限りである。張飛は自分の矢傷を見るたびに、関羽と重ねる自分がいると感じずにはいられない。
「この矢傷を、どうにかせねばならぬ」
「そうでなければ、もはやこれまで…」
張飛は、最後の闘いの場所になるやもしれぬと、この夷陵にすべてを賭ける覚悟が出来ている。
「せめて、この腕が上がるくらいに回復できれば、十分に闘えるのに…」
張飛は、若き頃の傍若無人の頃を思い出している。時に、関羽に諌められたり、長兄である劉備にも窘められた。
「ああ、あの頃が懐かしいわい…」
三本の大木は、桃園結義で生涯の誓いを立て、今は亡き関羽が欠け、残るは張飛と劉備の二人である。
その運命も、もう直ぐ尽きると感じる張飛は天を見上げている。
その頃、ようやく馬謖が諸葛亮のいる漢中へ到着するところである。遠路遥々、蜀の陣況を伝えに来た男は、完全に疲れ切っていた。
「門を開けて下され!」
「夷陵からの使いで、馬謖が来たと諸葛亮様にお伝え下さい」
馬謖は気力を振り絞り、門番に訴えた。
「これは、馬謖様…」
「どうしたのですか? 血相を変えておられます」
門番が心配そうに近寄ると。
「構わぬ!」
「火急の用だ…」
「事を急ぐ、早く諸葛亮様にこれを!」
認めた陣容を記したものを手渡すと、馬謖はその場に卒倒した。
馬謖は、冷たい水を受け取ると我に返った。
「私を諸葛亮様の処へ連れて行け!」
支えられている馬謖が、諸葛亮のところへやってくる。
「これを! 劉備様の配された陣容の写しでございます」
陣容を記したものを諸葛亮が受け取ると、彼はその内容を見て愕然とした。
「劉備様は、この戦いにおいて大変な間違いを犯した!」
諸葛亮は、やってきた馬謖を見上げた。
蜀の陣営は、陸地に五十箇所の陣を連ね補給線をたどり、水路には黄権の一隊が数百里に連なっている状況を事細かく記している。
「呉の総大将は誰だ!」
諸葛亮は、事の是非を確認しようとしている。
「弱卒である陸遜と云う者が、呉の陣営を任されているようです…」
馬謖は、人を見下すところがあった。
「陸遜であるのか!」
「この男は、油断がならない…」
「かなりの切れ者と心得よ!」
諸葛亮は、陸遜の人物像を伝えると、その本題である劉備の危機を説明しはじめた。
「今は、時節が夏である」
「暑さに耐えかね、本陣が避暑地を求め、森林に陣容を構えるところとなれば、必ず総攻撃の火攻めがもたらされる!」
諸葛亮は、その場に座り込んでしまった。
「ああ、我が殿は、この場において取り返しのつかぬ布陣をしておられる」
「この布陣の説明をしている暇はない、取り急ぎ、陣容の危険を知らせねば取り返しのつかぬ事になる」
しかし、その修正の効かぬ事態を馬謖は知っていたのである。
「劉備様は、事に焦るばかりで、我らに讒言を聞くことはございませんでした」
「讒言したとしても、門前払いが起きる始末でございます…」
涙ぐみながら、馬謖は諸葛亮の袖をつかむように懇願した。
「ここは、諸葛亮様が直接出向かわなければ事は動きません!」
諸葛亮は、不吉な予感が胸をよぎった。
「この諸葛亮が赴いても、事が動くかは…解からない!」
「されど、主君の危機…見逃すわけにはいかぬ」
「急いで、劉備様のいる夷陵へ向かう必要がある」
「されど、暑さを凌ぐために、避暑地に劉備様がお入りになられたら…」
「事は間に合うまい」
「この、書状を向寵に届けよ!」
諸葛亮は、自筆の書状を記すと、早馬が夷陵へ出発してゆく。
「急ぐぞ!」
「この戦は、蜀に大打撃を与えることになる…」
諸葛亮は、馬謖を休ませると早朝、漢中を発っていった。
諸葛亮が漢中を発った数日後、当の向寵は、張飛の命で医術に心得のある者を求めていた。当然ながら、夷陵を離れていることを諸葛亮等は知らない。
その向寵は、白帝城の辺りをうろついたままであった。
「名医を探せというが、華佗亡きあとに誰を見つけたらよいのか…」
「こんな田舎では、到底見つかるわけがない」
「思い切って、適当な医者でも連れて行くか!」
その、やみ雲な行動がとんでもない名医につながることになるとは、向寵も考えてはいない。
「とりあえず、民衆の噂を探してみよう…」
それから、向寵は噂を求め歩き続けた。
その時、諸葛亮の早馬が白帝城の向寵の目の前を過ぎていこうとしていた。
それに気が付いたのは、当の向寵であった。
「止まれい!」
早馬の過ぎ去る処に、向寵が道を塞ぐことになる。
「今は、急いでいる!」
早馬の男が、向寵に向かって言った。
「お聞きしたいことがあり、止めたまで…」
先を急ぐ早馬の男に対して、向寵は、その男に問いただした。
「我は、蜀の向寵である…」
「張飛様の命で、医者を探している!」
「心当たりは、御座いませぬか…」
早馬の男は、呆気にとられた。
「お手前が、向寵様でございますか?」
「如何にも!」
早馬の男は、諸葛亮からの手紙を差し出すか悩んだ。
「証拠は御座いますか?」
向寵は、懐から張飛の命令状を見せる。
「これを見よ!」
そこには、張飛の印のある書状が認められていた。
「これは、張飛様の書状!」
「失礼しました」
早馬の男は馬より下りて、向寵に敬礼の意を表すことになる。
「実を申せば、張飛様は矢傷を負っておられる!」
「その傷の、処置のできる医者を求めているのだ…」
男は、その書面をくまなく確認すると、向寵の顔を見て呟いた。
「実を申せば、我が兄は、華佗様の従者でございました」
男は、実の兄が医術の心得のあることを伝える。
「まことか、その兄と云うのは何処におられるのだ…」
向寵は、藁をもつかむ気持ちで男に問いかける。
「兄は、華佗様がお亡くなりになられた後、華佗様を丁重に葬り、その後はその意思を受け継ぎ、襄陽にて庶民を治療しておられます」
「襄陽におられるのか!」
向寵は、その情報を仕入れると、心の内に安堵感を覚えた。
「これより、襄陽に向かい、兄を連れて参りまする!」
男は、馬を走らせる前に、諸葛亮から受け取った書状を手渡した。
「お願いがございます!」
「諸葛亮様には、この事をお伝え願いませぬか…」
そう言い残すと、早馬の男は方向を転換して襄陽に急いで向かってゆく。
「急がねば…」
向寵は、張飛にこの症状を見せるべく、急いで夷陵に引き返して行く。
猛暑厳しく、蜀の面々は項垂れている始末である。夷陵にて、遠征を繰り返してきた蜀の陣容は、疫病は流行り出し、士気は落ち込んで、どうにも収拾が出来ない状況下に直面していた。
「殿、これでは戦になりません…」
堪りかねて、諸将が劉備に最後通告のように讒言すると。
「ううん、いかん。こうなれば、陣を他の場所へ移そう…」
「涼しく、水のある場所へ行くしかあるまい」
劉玄徳も、とうとうそのお触れを陣営に通告することになる。
しかし、馬良がその状況の危機を知っていたので注意する。
「一度に、この大軍を避暑地に退いては、大変な事になります」
「かならずや、陸遜の追撃を食らうことになると!」
この一大事に、一番の心配ごとが動き始めた。
「陸遜も、この暑さで参っておる筈じゃ…」
「再三にわたる、挑発にも見向きもしない!」
「あの弱卒が、もし、追撃を開始したら、朕自ら精鋭を向かわせ、これを討つ」
劉備が命令を下すと、蜀の陣容は、暑さを避けるために林群がる森林地帯へと移動していった。
その状況をじっくり観察していた陸遜は、口元に不敵な笑みを浮かべ、劉備のいる陣容を目で追っている。
「とうとう、その好機が訪れた…」
陸遜は空を見上げて、両手を突き上げている。
張飛の腕が回復する間もなく、その命運は尽きるのか…。
それとも、諸葛亮が間に合い、起死回生の時が訪れ劉備の危機を救うのか。
夷陵の戦場に、異様な風がたたずんでいた。
つづく。