張飛の変化
静まりかえる闇夜の中、赤い月が下界を見下ろしている。ほのかな灯を放った部屋では、酒に酔った大男が、大いびきをかいて寝ている。
辺りは、夜の静けさに満ちていて、月明かりが灯となって僅かな光りを地上に放っていた。
それから、どれくらいの時間が過ぎ去ったのか、大男はまだ静かな夢の中、時折大きく寝返りを打っていた。
その寝所に、静かに近づく怪しい二人の男がいた。
彼らは何か、ひそひそと話しをしているようである。
たび重なる、主の暴力に耐えかね、堪忍袋を切らした輩は男に恨みの刃を浴びせようとしていた。
「奴を、今晩殺しちまおうぜ……」
「ああ、度重なる日頃の恨みを、今夜ここで、いっきに晴らしてやる!」
大男の寝所の中に、二人が、そっと忍び込もうとした時である。
近くに、得体のしれない何かがいる気配に、二人の男は血相を変えて気がついた。
部屋の奥に、見慣れた大きな人影が潜んでいる。
「こつこつと」足音が深夜にこだまする。
それは、こちらにだんだんと近づいてくる。
それを見るなり男たちは、暗闇の中で、いっそう恐ろしくなり、身の毛もよだつほどに震えあがった。
長い髭をたくわえた、大男が立っていたからだ。
男はこちらに、ますます近づいてくる。男たちは、その近づく大男に見覚えがあった。
「あっ……」と、ひとりの男が驚愕の声をあげる。
なおかつ、こうつぶやいた。
「あの髭の大男は!」
髭をたくわえたその大男が、その男たちに向かって怒鳴るように怒声をあげた。
「貴様らは、ここで何をしているのだ!」
「この夜分に、その男の寝首を掻こうとでもいうのか」
立っている男は、赤ら顔の髭をたくわえた男である。
それは先日、呉の呂蒙の策略で、麦城で非業の死を遂げた関羽雲長その人であった。関羽はいわば戒める精霊となり、二人の男の前に必然的に現れたのである。
「貴様らには、張飛は、殺させぬぞ!」
その時、寝ている大男が寝返りを打ち、
耳に届いたのか、その声を感じて、寝ていた大男はすかさず飛び起きたのである。
「兄貴ではないか!」
「どうして、ここにいるんだ!」
その男は、張飛翼徳という。蜀の車騎将軍である。彼は、頬にたくさんの涙を浮かべて泣いている。関羽とは、あの桃園の誓いを交わして以来、義兄弟の契りを結んだ仲であった。
「張飛よ、わしは傲慢で剛毅のために、命を落としてしまった」
関羽は、淡々と語りだした。
「今、荒れているお前の事が、心から心配なのだ」
「いいか、張飛! 己を悔い改めなければ、命はないと思え」
「そこにいる、お前らも立ってないで、こちらに来い!」
関羽は、男たちを手招きして呼び寄せた。二人は先日、張飛に傷めつけられた、張達と范彊である。
関羽の弔い合戦のために、白い装束を用意することで、張飛を怒らせ木に括りつけられて、鞭で死ぬくらい打たれていたのである。
「わかりました」
震えながら、こちらに歩み寄る張達と范彊がいる。
史実上の張飛は、知識人を敬愛したが、学問のない兵卒などには情け容赦ない態度で接している。劉備はいつも、張飛に注意していた。
「お前は、刑罰で人を殺しすぎている」
「それに日々、兵卒を鞭でたたき、それらを自分の身辺においている。」
「これは、災いを招く道だぞ!」と、日々戒めていた。
それでも、張飛は自分を省みないために配下の将の張達、范彊に暗殺されてしまう。
ちょうど張達と范彊は、今夜の寝静まった頃に、張飛の暗殺を実行するところであった。そこへ、関羽の亡霊が現われて、その暗殺を阻止しようとしたのである。
驚いたのは、張達と范彊である。身の凍る思いをしたのは、当然であったろう。すこぶる恐怖にふるえ、関羽のただならぬ怒りに満ちた顔を見た。そして、張達と范彊は完全に戦意を喪失している。
言われるままに、関羽の亡霊にしたがう両人であった。それほど恐ろしいものであったのだろう。
張達と范彊は、さらに関羽に近づいていく。それを見た、張飛が顔色を変えた・・・。
「お前たちは! 張達、范彊!」
「申し訳ありません。張飛様を殺そうとしていました」
関羽がそれを見て、ささやく。
「部下を大事にせんと、いつかは殺されるぞ。張飛!」
「今、お前までもが死んだら、劉備様はどうするのだ?」
「あまりにも、配下に厳しすぎるではないか」
その言葉を聞いた、張飛は大声をあげて床に伏せて泣き叫んだ。
「うおーっ!」
「兄貴、わしは、わしは、間違っておったぞ!」
「申し訳ない。張達、范彊、わしが悪かった。許してくれるか?」
泣きながら謝る、その姿は今までの張飛とは違っていた。
「すまん、明日の朝方。わしは、皆に謝罪するぞ!」
「張達、范彊、朝に皆を集めてまいれ。頼んだぞ!」
「わかりました、張飛様がそうおっしゃるならば」
「われら、恨みごとは水に流し。お仕えさせていただきます」
そういうと、彼らは納得して。張達と、范彊はその場を静かに立ち去った。
暗い闇が過ぎ去り、間もなく夜が明けようとしていた。
「よいか、張飛よ。今日の事は決して忘れてはならんぞ!」
「今、劉備様は私情から冷静さを欠いておる。お前が冷静になり助けるのだ」
「いざという時は、後詰めは張飛! お前しかいない!」
「必ず、肝に銘じるのだ! もう間もなく朝が来る、済まぬがこれでさらばだ!」
「兄貴、もう行ってしまうのか!」
張飛は寂しげに、茫然とそこに座りこんだ。その場所には、関羽と供に命を落とした、関平と周倉が立っている。関羽らは、張飛に挨拶をすませると、その場から消え去って行った。
辺りは、朝露にまみれ光輝く日差しが立ち込みはじめている。
「わしは、心に銘じて劉備さまを助けなければならない!」
涙をながした張飛は、関羽が消えさった場所に立ち尽くす。
「兄貴、見ていてくれよ! 俺は変わるぞ!」
時に、二二一年。巴西郡の治所閬中(四川省閬中)での出来事であった。
辺りを霧がつつむ中、陣中では、張飛の軍が整列している。
「張達さまと、范彊さまが、われらを集めたみたいだぜ!」
陣中では、ひそひそ話しが始まっている。
「今日も、張飛様に、こっ酷くやられるのかな?」と、兵隊たちは、皆怯えている。
「静まれ!」と、范彊が一声かけた。やたらと、落ち着いている張達と范彊をみて、兵士たちは驚いていた。
そこへ、雰囲気のまるで違う張飛が、兵卒の前にあらわれる。
「早くから、良く集まってくれた。お礼を申す!」
まるで、別人の張飛をみて兵士たちは驚く者が多い。
「なんか、おかしいぞ!」と、兵士たちは、顔を見合わせ、ただ驚いている様子が窺がえる。
「今日から、この張飛は変わると宣言する。心を改め、粗暴な俺から、配下を大事にする俺に、変わろうと思うのだ」
「今までの事は、申し訳ないと心から反省しておる!」
兵卒たちは、驚きと安堵感にどよめいていた。張飛の言葉を聞いて、一番安心しているのは張達と范彊だった。朝早くから、始まった張飛の異変には誰もが驚いていた。
この前年に、蜀の参謀であった法正が四十五歳の若さでこの世を旅立っている。もし、生きていれば、さぞかし驚いたことであろう。心の中で張飛は、法正の事を思い出していた。
「皆のもの、これからが大事である。精進して蜀のために働いてくれ!」
その張飛らしからぬ、言葉に戸惑いつつも、兵士たちは声を出していた。
「おおーっ、張飛さま。万歳!」
「これで、解散する。持ち場につくがよい!」
晴れやかに朝の集会は幕をとじた。それを、涙ながらに見つめる男がいた。何を隠そう、張飛の倅、張苞であった。
「親父、どうしたんだろう? 人が変わったようだ」
張飛がそれを見つけて歩み寄る。
「おおっ、張苞ではないか!」
「親父、なんか違うな?」
張飛は、昨晩の出来事を張苞に言って聞かせた。
「そうでしたか。なるほど、関羽さまが現れたのですか」
本来、張飛は直情径行型の武将で部下を非常に可愛がったが、同時にこれを罰することも厳しかった。これが、史実で命を早めた結果である。
天下の情勢は、前年にあの曹操が正月に世を去り。子の曹丕が受継いでいた。十月には、曹丕が献帝の禅譲を受けている。
蜀側でも、先に述べたように法正が亡くなっている。この年には、劉備が帝位につき蜀漢が生まれている。
史実では、この翌年の二月、劉備が関羽の報復のため、呉に出兵し六月に夷陵にて大敗する事になるのだが。
七月に暗殺をまぬがれた張飛は、酒はわずかに我慢するようになり。兵卒に、八つ当たりする事も控えるようになり、信用も得ている。
彼は閬中を、ひそかに経ち、江州にいる劉備と合流すべく軍を進めていた。この中には、都督の呉班や武将の張達や范彊もいた。
「張飛さまは、お変わりになられた。昔から配下思いではいるが、罰が厳しすぎたからな!」
張飛の様子を遠目に見ながら、呉班が意味ありげに呟いた。
江州(今の重慶)へむけて出立した張飛軍は、およそ一万あまりの軍勢である。劉備と合流すべく街道を東進中であった。
「皆のもの、この張飛に続くがよい!」
隊列が、乱れぬ隙のない行軍であることは、張飛の訓練のたわものである。