エマトブルバシア6
同時に、背筋が凍る気配。
鉄が擦れる音。
——ギ……ギ……。
貴賓席の背後。
鉄の触手のようなものが、ゆっくりと蠢いた。
鞭のようにしなる。
敵意に反応する自動の武器。
(本体は弱い。だから“自動で殺す”)
支配の仕組みが、目の前で形を得る。
アプリスが言った。
『夫は慈悲深い。だからこそ、命令を与える』
慈悲。
命令。
その矛盾が、この町の正体だった。
オルガナは息を吐いた。
(……壊す)
(でも、命令しない)
その時——
止まっていたアンドロイド兵が、震える手で胸元を開いた。
小さな発信器。
黒い膜みたいな回路。
それを自分で引きちぎった。
——ブチッ。
蒼い瞳が、はっきりと焦点を結ぶ。
兵は、ぎこちなく頭を下げた。
まるで初めて「選んだ」みたいに。
そして、観客席の端で偵察のアンドロイドが、静かに合図した。
(……いける)
(この女なら)
蝶の羽ばたきが、連鎖を始めた。
闘技場は、まだ騒いでいる。
だが、その騒ぎの下で、反乱は静かに生まれた。
闘技場の空気が、さらに冷たくなった。
観客は叫ぶ。
だが、さっきまでの熱狂とは違う。
苛立ちが混ざっている。
思い通りに“壊れない”ことへの苛立ち。
黒いオーラの流れも、どこか細い。
——満たされない。
貴賓席の影。
アプリスが、ゆっくりと息を吐いた。
『……つまらない』
その一言が、観客の神経を逆撫でした。
「つまらない!?」
「じゃあもっとやれ!」
「殺させろ!」
アプリスの声が響く。
『旅の女。お前は命令を切った気でいるようだが——』
『この町では、命令は“形”を変える』
『殺せないなら、殺させる』
——カン。
合図。
兵士が、フィビーの口元へ黒い瓶を近づけた。
毒。
光を吸う黒。
フィビーは抵抗しない。
抵抗すればフーが痛む。
抵抗すれば“処刑”される。
フーの首輪が赤く点滅した。
——ピリッ。ピリッ。ピリッ。
フーは笑う。
笑って、喉の奥を潰す。
「お客さん、盛り上がりすぎだって……」
軽口。演技。
でも声が割れている。
オルガナの足が動く。
一歩。
その瞬間、フーが“刃”の声で叩きつけた。
「動くな!」
闘技場に響くほど大きく。
観客が沸く。
「いいぞ狐!」
「止めろ止めろ!」
「泣かせろ!」
黒いオーラが増す。
その増え方が、いやらしい。
フーはわざとオルガナへ背を向け、両手を広げた。
「君がここで暴れたら、フィビーは今死ぬ!」
演技の声。
だが内容は真実。
オルガナは歯を食いしばり、拳が震える。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
声が掠れる。
フーは笑ったまま、唇だけ動かした。
(勝て)
(ここで勝て)
(ここは舞台だ。救うなら舞台ごと壊せ)
口は笑い、目が泣く。
その瞬間——
フィビーが、ほんのわずかに顔を上げた。
縦の瞳が、オルガナを見る。
言葉はない。
でも目が言っている。
(大丈夫)
(私はまだ死なない)
その瞬間、フィビーの口元の牙が、ほんの僅かに覗いた。
治癒の牙。
毒を受けても、生きるための牙。
——搾取されるための牙。
アプリスが楽しそうに言う。
『蛇の子よ。飲め』
兵士が瓶を傾ける。
黒い液が、唇に触れる。
その時だった。
闘技場の端。
倒れていたアンドロイド兵が、ぎこちなく立ち上がった。
観客は気づかない。
気づいても“演出”だと思う。
だが、その動きは演出じゃない。
“選んだ”動きだ。
アンドロイドはふらつきながら、砂を一握り掴み、空へ投げた。
——サァッ。
砂が舞い、光が散る。
ほんの一瞬、兵士の視界が乱れる。
その一瞬で、瓶の角度がずれた。
黒い液は、フィビーの唇に触れただけで床へ落ちた。
——ポタッ。
誰にも気づかれないほどの小さなミス。
でも、致命的な“時間”が生まれた。
闘技場の砂が、光を跳ね返した。
倒れたアンドロイド兵の蒼い目が、ひとつ、またひとつと揺らぐ。
命令が薄れる。動きが乱れる。攻撃が遅れる。
オルガナは息を吐いた。
(……いける)
蝶の羽剣を逆手に持ち替える。
刃は“斬る”ためじゃない。
“切断する”ためだ。命令を。
——カンッ。
首の後ろ。装甲の継ぎ目。
そこに衝撃を入れる。
——カンッ。カンッ。カンッ。
次々に同じ場所へ叩き込む。
アンドロイドの体が、まるで糸を切られた人形みたいに崩れていく。
観客が怒鳴る。
「殺せ!」
「おい、終わりかよ!」
「つまんねぇぞ!」
——だから。
オルガナは“殺さずに”、見せた。
≪閃光≫
金色のオーラが爆ぜる。
一歩で距離が消え、二歩で視界が塗り替わる。
——ガンッ!
武器だけを弾き飛ばす。
——バンッ!
膝ではなく、足首の関節を叩き、転ばせる。
——カンッ!
胸ではなく、背の継ぎ目を断ち、動きを止める。
誰も死なない。
でも、誰も立てない。
そして最後の一体。
オルガナは義手の掌を、その背に当てた。
「……戻れ」
光が薄い膜になって流れ込み、回路の“闇”だけを押し出す。
——ジ……。
蒼い瞳が、瞬きをした。
その目が初めて、“自分の意思”でオルガナを見る。
観客がどよめいた。
「何だ今の!?」
「止めた!? 壊してないのに!?」
熱狂が、形を変えて沸いた。
黒いオーラが立つ。
だがそれは、殺戮の快楽じゃない。
“圧倒”への興奮だった。
アプリスの声が落ちる。
『勝者——旅の女剣士!』
歓声が爆ぜ、黒いオーラが城へ吸われる。
だが拍手が収まる前に、兵が砂へ降りてきた。
鋼の靴が、勝者の影を踏む。
「勝ったからって自由だと思うな」
兵がオルガナの耳元で囁く。
「命令違反だ。破壊命令に背いた罪は重い」
さらに低い声。
「抵抗すれば——蛇の子を“処刑”する」
オルガナの喉が鳴った。
金色のオーラが揺れる。
だが剣は抜けない。
「……連れていけ」
兵が勝者の腕を掴む。
観客には見せる。勝者の凱旋のように。
その裏で、鎖が鳴った。




