アグニの民5
使者たちが渓谷の入口から姿を消したあとも、街はすぐには静まらなかった。
怪我人に冷灰布が当てられ、見張りが増やされ、水路の異常がないか男たちが何度も石段を上り下りする。
女たちは鍋を起こし、子どもを抱えた母親たちは、ようやく詰めていた息を細く吐いた。
誰も“終わった”とは思っていない。
けれど、止まってもいなかった。
そうして手が動き続けるうち、谷の上を流れていた陽が少しずつ傾いていく。
岩肌の上にあった光は細くなり、渓谷の底から先に影が満ちた。
灰で縁取られた火床の縁だけが、最後まで赤く残る。
その頃になってようやく、長はオルガナたちを振り返った。
「……今夜は泊まれ」
低い声だった。
「外を歩くには遅い」
オルガナは一度、渓谷の入口の方を見た。
もう白外套の影はない。
けれど、いなくなっただけで消えたわけじゃないことは、誰の顔を見ても分かった。
「……世話になる」
そう言うと、長は黙って頷いた。
その夜、オルガナたちは火床へ招かれた。
山芋を削って煮た白い汁。
塩で締めた獣肉。
砕いた木の実を混ぜた灰焼きの団子。
香りの強い葉を落とした鍋の湯気に、最後は灰蜜茶の甘い匂いが重なる。
山の飯だ、と長は言った。
味は見た目よりずっといい、とフーが言って、鍋をよそっていた女に睨まれた。
子どもたちは最初こそ遠巻きだったが、鍋が回るにつれて火床の近くまで寄ってくる。
フィビーは器を両手で抱え、ユカはその隣で小さく息を吐いた。
オルガナも久しぶりに、人の輪の中で肩の力を抜いた気がした。
ただ、カイオだけは火床の輪に入らなかった。
差し出された器は受け取る。
火傷を癒す灰布も受け取る。
だが誰とも目を合わせず、火床から一歩離れた石の縁に座っている。
背の骨剣は抜かれていない。
それでも、そこにあるだけで空気を張らせた。
今日、兵を一人殺したのはカイオだ。
渓谷の民は口にこそしないが、知らないわけでもない。
長も何も言わなかった。
ただ一度だけ、カイオの肩の灰布が落ちかけたのを見て、近くの子どもに新しい布を持たせる。
子どもは無言で灰布を置いて走り去った。
カイオは呼び止めず、それをしばらく見てから黙って肩へ掛けた。
夜が深くなるにつれ、火床の周りの声は少しずつ小さくなっていった。
器が空になり、鍋の底だけが静かに煮詰まる。
誰かの鼻歌のようなものが一度だけ生まれて、すぐ消える。
その頃には、カイオの姿がなかった。
フィビーがきょろきょろして言う。
「……カイオ、いない」
フーが片眉を上げた。
「一人になりたい夜もあるだろうさ」
オルガナは何となく立ち上がり、火床の輪から半歩外へ出た。
石段を上がり、渓谷の縁、夜風の通る方へ目をやる。
町の灯りから少し離れた岩の上に、背の高い影が見えた。
カイオだった。
月も届ききらない暗がりで、一人、谷の外を見ている。
肩の線は強張り、片手が火傷痕のあたりで止まっていた。
追いかけて声を掛けようかと一瞬思う。
だがオルガナはやめた。
今、あれに必要なのは言葉じゃない。
誰にも見られない場所だ。
「放っといてやんな」
後ろからフーの声がした。
「今はまだ、自分の中で噛み砕いてる最中だ」
オルガナは短く息を吐く。
「……分かってる」
オルガナが皆のところへ戻ると、街の者たちが協力して寝床を作っていた。
岩をくり抜いた小部屋に、乾いた布と、灰を詰めた低い枕が次々と運び込まれていく。
贅沢じゃない。
けれど寒さを通さないように作られている。
「朝になれば、街が起きる」
長が戸口で言う。
「お前たちは、少しでも旅の疲れを癒やせ」
オルガナは頷いた。
「ありがとう」
寝床に横になると、石の冷たさの奥に、人の手で温められた気配が残っていた。
外ではまだ、誰かが鍋を片付けている。
遠くでフィビーの笑う声が一度だけして、ユカの小さな「……しー」が重なる。
やがてそれも止み、渓谷は少しずつ夜へ沈んでいった。
オルガナは目を閉じる。
[次の日]
渓谷に平和な朝が訪れた。
灰蜜茶の甘い匂いが残り、冷灰布が火傷の熱を吸っている。
……はずだった。
この街は、朝になると必ず水が落ちる。
岩肌に刻まれた水路を伝って、谷の底の槽へ——コツ、コツ、と。
それが合図で、鍋が起き、灰が整い、子どもが笑う。
その音が、今朝は最初から無かった。
先に気づいたのは、長だった。
いつもなら、石段の下から水の音が上がってくる時刻。
長の目が細くなる。
「……下の槽を見ろ」
オルガナは、その声の硬さで初めて“何かが起きた”と知り、布団から飛び出た。
そして気づく。——周りの人間が、もう動き始めている。
走るというより、足元が定まらないまま右往左往していた。
ユカが、無意識に首元を押さえた。
痕が疼いたわけじゃない。
もっと嫌な感じがした。
「……来る」
小さく呟いた声は、誰に向けたものでもない。
フィビーがユカの袖を掴む。
「ユカ?」
長は石段を降りる途中で、空気が乾くのが分かった。
湿り気がない。
火を隠す街の“熱”が剥き出しになる。
谷底の槽の前に、人が集まっていた。
槽は半分の水位で止まっていた。
水面が動かない。落ちる波紋が無い。
急いで水路を確認すると、口に金属の栓がぴったり嵌まっている。
丸い蓋みたいな栓の中央に、小さな六角穴。
男が棒を差し込み、反射で回した。
——ギギギ。
音と一緒に、栓の外周がじわりと膨らんだ。
岩肌へ噛み込み、もう一段深く固定される。
「……逆だ!」
叫んだ男が引き抜こうとしたが、びくともしない。
石で叩けば火花が散るだけで、栓は笑うみたいに動かない。
表面には規格の刻印。
白外套の連中の印だ。
長が唇を噛む。
「水路は命綱だ。ここは山だ、飲める水は限られてる」
誰かが息を呑む。
長は低く続けた。
「この谷で水を止めるのは、敵に命を握られたのも同然だ……」
その言葉が落ちると、周囲のあたふたしていた手が一瞬止まった。
フーが舌打ちした。
「……やり方が汚ねぇな」
その時、見張りの若者が石段を駆け下りてきた。
「長! 入口に白外套が——!」
ユカの指は首元から離れなかった。
渓谷の入口から、整った足音が響いた。
ザッ、ザッ、ザッ。
白い外套。黒鉄の甲冑。
昨日と同じ列。けれど今日は、隠す気がない。輪も鎖索も、堂々と見せて歩いてくる。
その“堂々”は、正義の仮面を被っている。
先頭は、あの使者だった。
笑顔は変わらない。だが、今の笑顔は“許可証”みたいに見えた。
「おはようございます」
丁寧な声。礼儀正しい挨拶。
それを受ける側の喉は鳴らない。返せば会話が成立してしまう気がした。
使者は、懐から一枚の紙を取り出した。
白い紙。角が揃っている。印章が赤く、規格の文字が黒く並ぶ。
紙が風に揺れただけで、渓谷の人間の肩が揺れた。
「条約に基づき、徴発を行います」
その言葉にざわめきが起きる。
長が一歩前へ出た。
「徴発だと?」
「はい。貴殿らの渓谷は“危険地域”に指定されました」
使者は淡々と言い、紙の印章を指先で叩いた。
叩く音が、やけに大きく聞こえた。
長は一言も返さず、踵を返した。
入口で喧嘩をしても意味がない。
街の中心なら民が集まり、相手を囲える。
彼が向かったのは、集会所の中央だった。




