アグニの民3
ユカの紅眼はゆっくりと元に戻った。
その代わり、目元が熱に濡れる。
フィビーが不安そうに見上げる。
「ユカ、いたい?」
ユカは首を振った。痛いのは、目じゃない。
見えてしまうことが痛い。
——その時。
渓谷の入口から、整った足音が響いた。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
揃いすぎた歩幅。訓練された軍の歩き方。
白い外套の列が、朝日に浮かび上がる。
裾が揺れるたび、下から黒鉄の甲冑が覗いた。
継ぎ目はリベット。装飾はない。規格だけがある。
腰には剣ではなく、金属の輪。
細い鎖索。
捕まえる道具だ。
先頭の男が、やけに丁寧な声で言った。
「我々は対アフィニシー防衛同盟の使者である」
笑顔。
正しい言葉。
だが足元の輪が、冷たく鳴る。
——カチン。
ユカの肩が跳ねた。
男は続ける。
「貴殿らを保護しよう。迫害の歴史を終わらせよう。
鉄の国が提供するバリア機構と、アスピダスの供給網も——」
“守り”を語りながら、捕縛具を揺らす。
長が一歩前へ出る。
「帰れ」
使者は笑顔を保ったまま言う。
「誤解だ。我々は敵ではない。条約のもと——」
「条約は鎖にもなる」
長の声は低い。
使者は、視線だけをユカへ向けた。
甲冑兵の一人が、ユカへ近づく。
鎖索が指先でほどかれる。
——カチン。
ユカが、息を呑む。
兵は首元を見た。
そして、無意識の声で言った。
「回収痕……一致」
その瞬間。
崖の影で、骨が鳴った。
——ギ。
節が擦れる音。
熱が、空気の匂いを変える。
カイオが降りてくる。
速い。静かなのに、圧が重い。
彼は口を開かなかった。
ただ、ユカと兵の間に立った。
甲冑兵が眉をひそめる。
「条約に基づく保護だ。退け」
カイオが、初めて声を出す。
低く、短く。
「……保護?」
その一語に怒りが混じる。
使者が笑顔のまま言った。
「抵抗するのか。なら——保護の手続きを変更する」
輪が構えられる。
——カチ、カチ、カチ。
カイオの大剣の節々に、火種みたいな赤が灯った。
勝手に点く。感情が火を呼ぶ。
カイオの腕には、古い火傷痕が無数にある。
その痕が、じわりと赤く滲む。
熱が広がる。
集中しなければ、燃えるのは敵じゃない。自分だ。
カイオは息を整えた。
一瞬だけ、世界の音が消える。
そして言った。
「……鉄の国は通過点だ」
視線が、白い外套の列の奥へ突き刺さる。
「元を断つ。霧の女王を倒す」
その言葉に、オルガナの胸がひやりとした。
ユカの瞳が、また紅く揺れた。
カイオの背で炎猿の王が、笑ったように見えた。
フーがフィビーを背に回す。
アンドロイド兵が一歩、前へ出る。
ユカが震える息で言う。
「……来る……また檻が……」
オルガナは羽剣に手を置いた。
守るためなら。
長が低く言った。
「この山で、朝に檻は作らせない」
渓谷の朝が、静かに燃え始めた。
長の声は低い。
言い切っただけで、渓谷の空気が一段、重くなった。
同盟の使者は笑顔を崩さないまま肩をすくめる。
「我々は対アフィニシー防衛同盟の——」
「……保護?」
ユカの前に立つ男——カイオが、短く言った。
怒鳴っていない。だが、温度が違う。
「そのツラが、人を助ける顔に見えねぇな」
オルガナの言葉は、刃より静かだった。
輪も鎖も、もう十分見えている。言葉で重ねる必要はない。
甲冑兵が輪を構える。
規格の動き。規格の呼吸。
輪が跳ぶ。
——シュッ。
狙いはユカの足首。
閉じれば硬直し、巻き取られ、檻に戻る。
その瞬間、ユカの瞳が紅く光った。
世界が“線”になる。
飛ぶ輪。
中心の小さなロック。
そこへ——カイオの指先一点に霊力が針のように集束していくのが見えた。
怒りの中で、冷静だ。
息が乱れない。
輪が閉じる寸前。
——カチン、となる直前に。
カイオの指が、軽く弾いた。
——パキッ。
砕けたのは輪そのものじゃない。
ロックだけだ。
輪は勢いを失い、砂利みたいに散って転がった。
風に煽られてカラカラと鳴る。
カイオの手の甲の古い火傷痕が、じわりと赤く滲んだ。
集中を切れば広がる。
だから彼は呼吸を整え、熱を押さえ込む。
使者の笑顔が薄くなる。
「抵抗する気か」
兵が一斉に動いた。
——カチ、カチ、カチ。
輪が組み替えられ、鎖索が網になる。
捕縛は殺傷より速い。奪うのに迷いが要らない。
オルガナは一歩、前へ出た。
ここから先は——自分の役目だ。
(守る。奪わせない)
鎖索が走る。
一本がオルガナの足元。
もう一本がフィビーの膝の高さ。
さらに一本がフーの背へ回り込む。
オルガナは岩を蹴り、軌道をずらす。
足を取られない。代わりに巻き取り器の継ぎ目を見る。
規格のリベット。
同じ位置。同じ癖。
そこを峰で叩く。
——ガンッ!
巻き取りが止まり、鎖索がたるむ。
武器がただの重りになる。
兵が息を呑んだ、その隙に、オルガナは踏み込む。
刃は使わない。
義手の掌で関節の角度だけを変える。
——グキッ。
膝が落ちる。
オルガナは兵の胸当てを掴み、転がすように地面へ寝かせた。
「寝てろ」
それだけ。
使者が指を立てた。
「拘束。抵抗者は拘束」
輪が増える。鎖が増える。
網が狭まる。
フィビーが咄嗟にユカの手を握る。
「ユカ、だいじょうぶ」
ユカは頷きたいのに、喉が動かない。
輪の音が記憶を叩く。
——カチン。
同盟兵がフィビーへ鎖索を投げた。
胸が締まる角度。呼吸を奪う角度。
「っ……!」
フィビーが咳き込みながらも、ユカの方へ手を伸ばす。
オルガナは一瞬で間に入った。
鎖索を切らない。
巻き取り器を叩く。
——ガンッ!
止まる。
フィビーが息を吸い込む。
「はっ……!」
オルガナはフィビーの背を支え、低く言った。
「大丈夫。奪わせない」
フーが前へ出る。
耳が伏せ、瞳が獣の色に寄る。
けれど笑みだけは崩さない。
「面白そうじゃん。混ぜてよ」
軽い声。
でも声の奥が冷える。
狐耳がピクリと動いた瞬間、空気が一段沈む。
「その輪、俺にも巻いてみる? ——ちぎるけど」
兵の足が、半歩だけ止まった。
使者は笑顔を作り直そうとする。
「誤解している。保護とは——」
「保護なら、まず縛るのやめろ」
オルガナは淡々と言った。
声を荒げない。だから余計に重い。
兵が“本気”の配置に入った。
輪が連結され、地面へ落とされる。
踏めば閉じる。
避ければ狭まる。
網は、逃げ場を消すためにある。
ユカの瞳が紅く揺れた。
見える。
網の先——ユカ自身へ向けて、もう一本の輪が準備されている。
(次は……私に……)
ユカの膝が震えた。
カイオが低く言う。
「……退け」
甲冑兵が嗤う。
「武器を抜けないのか? なら拘束するだけだ」
輪が跳ぶ。今度は二つ。
閉じるタイミングをずらしてくる。——規格が賢い。
オルガナが間に入ろうとした、その刹那。
カイオが踏み込んだ。
だが抜かない。
背骨剣は背に置いたまま。
素手で、輪のロックへ指を当てる。
——パキッ、パキッ。
二つ目まで砕けた。
反動で、カイオの腕の火傷痕が赤く滲み、熱が走った。
集中が切れれば広がる。
だから彼は呼吸を整えて押さえ込む。
ユカの霊視が、その内側を捉える。
炎猿の王が背で牙をむく。
火傷の線が、今にも肩へ走ろうとしている。
ユカが掠れた声を出す。
「カイオ……燃える……!」
その声で、カイオの集中が一瞬揺れた。
熱が跳ね返り、手の甲に新しい火傷が滲む。
「……っ」
カイオは歯を食いしばり、低く言った。
「火で清める」
それは宣言じゃない。
祈りに近い。
——ギ。
背骨が鳴った。
カイオが大剣を抜く。
節々が擦れ、赤が灯り、熱が空気を歪ませる。
火は剣に宿るんじゃない。
握る者が火を受け止めている。
オルガナが叫ぶ。
「待て!」
カイオは答えない。
代わりに、使者を見た。
「……元を断つ」
輪と鎖索が一斉に飛ぶ。
捕縛網がカイオを包もうとする。
——だが。
背骨剣が横に薙がれた。
炎が節から弾け、網が熱で縮み、輪が歪み、鎖索が赤く焼けた。
金属が鳴き、兵が怯む。
カイオはその瞬間だけ刃を止めた。
止めて、息を整える。集中する。
火傷が広がらないように。
そして踏み込む。
狙いは使者ではない。
ユカに輪を投げた兵だ。
刃が落ちる。
——ズン。
一撃。短い。重い。
甲冑の間から火が漏れた。
兵は声を上げないまま崩れ落ち、熱が灰へ変えていく。
オルガナの喉が詰まる。
正しさじゃない。
でも——“返す”という弔いの形が、そこにあった。
アンドロイド兵が前へ出た。
蒼い瞳が揺れる。
命令ではなく、意思で並ぶ。
同盟兵の一人が言う。
「……機械が、盾になるのか」
アンドロイドは前腕を上げた。
盾じゃない。意思だ。
使者は歯を食いしばり、笑顔を作り直そうとする。
「……よい。今日のところは——」
長が低く言った。
「帰れ」
使者の目が細まる。
「条約を破る気か。次は“正式な保護”で来る。軍を連れて」
「来い」
長の声は石みたいに冷たい。
「この谷で、檻は作らせない」
使者は一瞬だけ、カイオの剣を見る。
骨の節の赤。熱。
倒れた兵の灰。
恐れが目に出た。
「撤退」
短い命令で、甲冑兵が引く。
輪が鳴る。鎖索が巻き戻る。
——カチン、カチン。
最後に使者が、ユカの首元を見た。
「回収は、終わらない」
そう言い残し、白い外套の列は渓谷の入口へ消えた。




