アグニの民1
アクバとの戦いから二日。
オルガナたちは、次の闇球がある鉄の国へ向かった。
だが、その道は険しい。
砂漠の縁を回り、岩場を登り、巨大な山を越えねばならない。
空気が薄くなるほど、世界の音が減っていく。
代わりに増えるのは、金属の擦れる音と、呼吸の音だけだった。
残ったアンドロイド兵は少ない。
それでも彼らは“命令”ではなく、意思で歩いている。
歩く速度も、立ち止まる理由も、自分で決めている。
フィビーは背負い袋の中で眠ったり起きたりを繰り返し、
目が合うたび小さく頷いてみせた。九歳の体に山道は厳しいはずなのに、泣き言は言わない。
フーは黙って周囲を見張り続けている。
右手は布の中。
その手が時々だけ動く。確かめるように。
そして、かつてウェイトレスだった少女は——首元を隠すのをやめていた。
四角に十字線が重なった、消えかけの紋。
それが風に晒されているだけで、彼女がもう檻の外にいると分かった。
夜。
山の風は冷たく、鋭い。
焚き火を上げれば居場所が割れる。
上げなければ凍える。
そのぎりぎりの場所で、ユカは石を輪に組み、灰を指で撫でた。
炎は高く上げない。煙も出さない。
それでも熱だけは確保する。
まるで火を“飼う”ように。
オルガナはその手つきを黙って見ていた。
教わった動きじゃない。
けれど、迷いがない。
ユカは灰の前で、ゆっくり息を吐いた。
胸の奥に詰まっていたものを外へ出すみたいに。
そして、オルガナたちを見た。
「……私、ユカ」
声は小さいのに、焚き火より温かかった。
「今まで言えなかった。呼ばれてたのは“役割”の名前で……これは、私の名前」
オルガナは頷いただけだった。
無理に祝わない。強制しない。
でも、その頷きがいちばんの承認だった。
ユカの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
フィビーが小さく笑って、発酵乳の瓶を差し出す。
「ユカ、のむ?」
ユカは受け取って一口飲み、
目を伏せたまま、もう一度だけ言った。
「……ユカ」
言い慣れていない名前が、口の中でほどけていくのが分かった。
その時だった。
——カチン。
金属を弾く音。
風の向こうから。
オルガナが顔を上げるより早く、フーの耳が伏せた。
アンドロイドの蒼い瞳が同時に、暗闇へ焦点を合わせる。
ユカの体が固まった。
「……その音」
息が細くなる。
「私が……連れていかれた時も……同じ音がした」
輪の外で、闇が動いた。
影が三つ、四つ。
灯りを持たないのに輪郭だけが見える。
金属の規格品の光り方。リベットで継いだ装備。
腰にあるのは剣じゃない。
金属の輪。
細い鎖索。
“守る”道具じゃない。捕まえる道具だ。
「いたぞ」
低い声。笑っている。面白がっている。
「この山の入口で女を拾えるとはな。運がいい」
別の男が続ける。
「山を越える? なら荷物が増えて丁度いい。売り物が一つ増えるだけだ」
オルガナは立ち上がった。
羽剣へ手を添える。抜かない。
「ここは通り道だ。帰れ」
返ってきたのは嘲笑だった。
「通り道? 違うな。ここは狩り場だ」
鎖索が走る。
——シュルッ。
狙いは足。捕縛の癖。
オルガナは岩を蹴って間合いを外した。鎖は空を切り、岩に刺さって火花を散らす。
「ほう……」
影の一人が輪を指で弾いた。
——カチン。
ユカの肩が跳ねる。フィビーが前に出かける。
「やだ……!」
フーがフィビーを背へ回す。
目が獣に近づく。呼吸が浅い。
オルガナの視線がそれを押さえつけた。
(使うな)
フーは歯を食いしばって耐えた。
布の奥で右手が震える。
捕縛輪が飛ぶ。
オルガナは手首で受け、握り潰さず地面へ落とす。
——カチン。
輪が虚しく閉じた。
「……殺さねぇのか?」
相手が笑う。
笑いながら、もう一本の輪を構える。
「優しいな。そういうのが一番、売れる」
ユカの喉が鳴った。
過去の景色が戻ってくる。輪の音。暗闇。息の詰まる檻。
「ユカ」
オルガナが呼ぶ。
ユカは首を振った。泣かない。逃げない。
でも——
「……来る」
囁いた。
「このままだと……また……」
オルガナは一歩、前へ出た。
「させない」
その言葉が落ちた瞬間——
闇が、もう一度動いた。
輪の音。
——カチン。
次の瞬間、列の端の男が膝を折った。
誰も触れていない。
矢も、刃も、見えない。
ただ、闇が——触れた。
男は声も上げずに倒れ、金属が鈍く鳴る。
——ゴン。
笑っていた連中の呼吸が止まる。
「……何だ、今の」
返事はない。
返事の代わりに、闇がさらに深くなる。
そして短い声が落ちた。
この場の誰の声でもない。
けれど、ここを支配している声だった。
「夜に騒ぐな」
命令ではない。宣告だ。
人攫いの一人が唾を飲み、後退る。
「……やべぇ。ここ、踏み込んだら終わる」
もう一人が歯を食いしばる。
「撤退だ。仕事は他でやる」
負け惜しみみたいに叫ぶ。
「覚えてろ!」
その言葉が風に散るより早く——
倒れた男の甲冑が、もう一度だけ鳴った。
——ゴン。
短い。鈍い。
息が、止まる音だった。
誰も姿を見せない。
ただ、この山は“夜の侵入者”を返さない。
鎖索の影が消えていく。
輪の音が遠ざかる。
——カチン。
——カチン。
最後の音が消えた時、ようやく息が戻った。
フィビーがユカの背にしがみついた。
「ユカ、いっしょ……」
ユカは頷いた。
震える手でフィビーの髪を撫でる。
「うん……一緒」
その時、闇の奥から影が一つだけ近づいてきた。
灯りはない。足音もない。
でも、そこに居る。
オルガナは構えない。
構える必要がないと、本能が理解した。
影はユカの前で止まり、首元を見た。
長い沈黙。
そして、短く言った。
「……戻ったか」
ユカの瞳が揺れる。
答えようとして言葉が出ない。
影は振り返り、歩き出した。
振り返らずに言う。
「ついて来い。今夜は歩く」
オルガナが一歩踏み出す。
「俺たちも——」
影は止まらない。
ただ言った。
「火を見せるな。声を上げるな」
それが、この山の掟だった。
彼らは歩いた。
月のない闇の中を、風の音だけを頼りに。
ユカは何度も転びそうになったが、
フィビーが手を引き、アンドロイドが支えた。
フーは最後尾で、闇の向こうを何度も振り返る。
獣目になりかけるたび、歯を食いしばって戻した。
オルガナは一度だけ、後ろを振り返る。
焚き火の跡は、もうどこにも見えない。
山が、飲み込んだ。
やがて東の端が白む。
夜明け。
霧が薄くなり、岩肌が金色に染まる。
その光の中で、影の輪郭が“人”になる。
道が開けた。
谷の奥に、隠すように作られた集落が現れる。
石と木。
煙の出ない炉。
低い屋根。
見張り台。
そこで初めて、ユカが息を呑んだ。
「……ここ……」
影——長が、振り返る。
「ここは、俺たちの場所だ」
そして、外の言葉を吐き捨てるように言った。
「鉄の国は俺たちを“エンガ族”と呼ぶ」
次に、火の前で名乗るように、静かに言う。
「だが、俺たちは——アグニの民だ」
ユカの目から、堰が切れたように涙が落ちた。
泣くつもりなんてなかったのに、勝手に落ちた。
「……私……ユカ……」
自分の名前をもう一度言う。
今度は、震えながらでも、逃げずに言える。
長は頷いた。
「名は刃より重い。……よう戻った」
朝の空気が、肺に入ってくる。
冷たいのに、なぜか温かい。
オルガナは胸ポケットに触れた。
布の中の黒い宝玉が冷たい。
(次は、鉄の国だ)
彼女は羽剣に手を置いた。
抜かない。まだ。
この場所で、まず守るべきものがある。
そして、奪いに来るものがいる。
夜明けの光が、谷を照らしていた。




