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蝶の鍵と黒霧の王女  作者: 髙橋彼方
第二章『エマトブルバシア』
15/22

エマトブルバシア12

フィビーが小さく言う。

「……狐、怖い」

フーは答えない。

ただ前を見ていた。

コッキンが、にやりと笑う。

「さぁ、自由になった狐くん。

君の芸を見せてよ」

赤いピエロ——コッキンは、笑ったまま足を縮めた。

きゅ、とバネが鳴る。

次の瞬間、影が消えた。

——ドンッ!

衝撃が壁を割る。

フーは間一髪で跳び退いた。

だが遅れて爆風みたいな圧が背中を殴り、肺の空気が抜ける。

「……っ!」

(速い)

縮んで、解放して、また縮む。

一歩が跳躍で、跳躍が打撃になる。

コッキンが天井近くまで跳ね上がり、笑う。

「どうした狐くん。自由になったのに、顔が暗いよ?」

——ドォン!

着地と同時に床が割れ、濁流が跳ねた。

フーの足元が滑る。

その瞬間をコッキンは見逃さない。

脚が縮み、解放。

——ガァンッ!

拳が飛ぶ。

フーは腕で受けた。

骨まで響く衝撃。腕が痺れる。

(受けたら終わる)

フーは一歩下がり、息を整える——はずだった。

フィビーが小さく身を震わせたのが見えた。

戦いの余波。砲弾の匂い。血の匂い。

九歳の体が耐えきれていない。

フーは歯を食いしばり、振り向いた。

「……オルガナ」

オルガナが目を向ける。

フーはフィビーをそっと抱き上げ、オルガナの腕へ預けた。

「頼む。ここから先、俺は——止まれない」

オルガナは迷わず受け取った。

「任せろ」

命令じゃない。約束だ。

フィビーがフーの袖を掴もうとして、指が空を掻く。

「狐……」

フーは見ない。

見たら揺らぐ。

コッキンが笑った。

「いいね。泣かせる前に引き離すの、サーカスっぽい」

その言葉が、フーの中の何かを折った。

フーの耳が伏せられ、声が低くなる。

「……お前」

目の奥が熱くなる。

フーの脳裏に、あの日の光景が蘇る。

——母が、自分を抱えていた。

——背中越しに、刃が迫っていた。

——母は笑っていた。怖いほど穏やかに。

——次の瞬間、瞳が“狐”の色に変わり、言葉が消えた。

——それでも母は、最後までフーを庇って前に出た。

——そして、狐のまま倒れた。

守るために、自我を捨てて。

フーはその光景を、見ている。

「母様に何をした!」

叫びは地下を揺らした。

怒りが、喉から刃になって飛び出す。

コッキンは肩をすくめた。

「覚えてたんだ。偉いね」

その軽さが、許せない。

——次。

コッキンの脚が縮む。

フーが踏み込む。

だが、コッキンは“跳ねて”いない。

その場で縮んだバネを、横へ解放しただけ。

——ズンッ!

視界が揺れた。

フーの腹に、見えない槌が入る。

息が止まる。足が浮く。

壁に叩きつけられ、コンクリートが欠けた。

「ぐっ……!」

コッキンが笑う。

「一メートルの壁に穴を開けるって言っただろ?

君の体はそれより柔らかい」

フーが立ち上がる。

膝が震える。腕が重い。

(……触れない)

(近づけない)

奥義は触れなきゃ成立しない。

それなのに近づけば、バネ打撃が先に来る。

背後で、フィビーの小さな声。

「……狐、戻って」

その一言が、糸みたいにフーの心を繋ぐ。

(戻る)

(でも、殺す)

フーは笑った。

笑って息を吐いた。

「……芸を見せてよ、だっけ」

右手に、黒い影みたいな光が集まる。

魂で作る呪い。

狐魂アレップ

オルガナは息を呑んだ。

危険が、肌に刺さる。

コッキンが気づく。

「へぇ。いい顔」

脚が縮む。

「それ、見せてよ」

——ドンッ!

コッキンが突っ込む。

拳が来る。避けられない。

フーは避けない。

迎えにいく。

(カウンター)

右手を前へ。

——バシッ。

触れた。

その瞬間、世界の音が消えた。

コッキンの目が見開かれる。

——自分の体が遠い。

——拳の手応えがない。

——床の感触がない。

魂が、体外へ引き剥がされる。

たった一秒。

だが一秒は、死ぬには十分だ。

フーの左手が狐化する。

鋭い爪が光を裂く。

——ザシュッ!!

一閃。

二閃。

三閃。

腹が裂け、胸が裂け、喉が裂けた。

魂が戻った瞬間、コッキンは“痛み”だけを持ち帰る。

「……え?」

遅れて血が噴き出した。

——ブシャァァ!

赤いピエロは崩れ落ちる。

フーは止まらない。

止められない。

爪がもう一度、もう一度と走り——

コッキンは原形を失った。

惨殺。

地下に、鉄と血の匂いが広がる。

静寂。

フィビーがオルガナの腕の中で固まる。

ウェイトレスが震える。

アンドロイドたちの蒼い瞳が揺れる。

オルガナが一歩近づいた。

「フー——」

その瞬間、気づく。

フーの目が、獣目になっている。

理性が薄い。

世界が獲物に見えている。

(……母様と同じだ)

フー自身が、一番それを恐れているのに。

オルガナは剣を抜かない。

命令もしない。

ただ低く呼ぶ。

「フー」

名前。

それだけ。

フーの肩が跳ねた。

一瞬、牙が覗き——

次の瞬間、目が戻る。

青年の目に。

「……っ」

フーは自分の手を見る。

血。爪。裂いた肉。

喉が鳴る。

「……すまんな」

声が震えていた。

オルガナは首を横に振る。

「謝るな」

フーは笑えない。

自分の中にいる“狐”がまだ唸っている。

(もう一回使ったら、戻れない)

その恐怖が、背骨に残った。

赤い仮面が、水に浮かんで流れていった。

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