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蝶の鍵と黒霧の王女  作者: 髙橋彼方
第二章『エマトブルバシア』
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エマトブルバシア8

控室に残ったのは、鉄の匂いと、時間だけだった。

ウェイトレスが扉を閉めた瞬間から、空気が薄くなった気がした。

呼吸の音すら、誰かに拾われそうで怖い。

フィビーは床に座り、首輪に触れた。

指先が震えているのに、目は揺れない。

「……怖い?」

オルガナが小さく聞くと、フィビーは首を横に振った。

「怖い。でも、慣れた」

九歳の口から出る言葉じゃない。

フーが壁に背を預け、目を閉じる。

「……慣れさせられた、だ」

首輪が赤く点滅する。

——ピリッ。

痛みが遅れて刺さり、フーの口角がわずかに歪む。

それでも声は落ち着いていた。

「見回りは、戻る」

オルガナは頷く。

「どれくらいで?」

フーは耳を澄ませた。

「……三分。長くて五分」

短い。

短すぎる。

控室の外で、歓声が遠くに爆ぜた。

闘技場は回り続けている。

誰かが殺され、誰かが笑い、黒いオーラが城へ吸われていく。

その“いつも通り”の中で、今ここだけが異物になっている。

——ガチャ。

通路のどこかで鎖が鳴った。

フィビーの肩が跳ねる。

フーが目を開く。

「……来るぞ」

オルガナは蝶の羽剣に手をかけた。

抜かない。抜けば終わる。

(命令しない。けど、見捨てない)

その矛盾を抱えたまま、扉を見つめる。

——コツ、コツ、コツ。

足音。

近づく。止まる。

控室の扉の前で、影が揺れた。

——コン、コン。

ノック。

「確認する」

低い声。さっきの見回りだ。

フーが、笑顔を作る。

“看板”の顔。

「はーい? 掃除中でーす」

「掃除? お前、さっきもそれ言ってたな」

「血、いっぱいなんで。臭いと奥様に怒られるんすよ」

一瞬の沈黙。

その間に、フィビーが息を殺す。

フーの首輪が赤く点滅する。

——ピリッ。ピリッ。

痛みが増している。

おそらく、アプリスが監視している。

フーは笑いながら、声だけ少し低くした。

「入るなら入っていいすよ。

ただ、血で靴が汚れても文句言わないでくださいね」

扉の向こうで舌打ち。

「……。早く終わらせろ!」

足音が離れていく。

——コツ、コツ。

消えた。

控室に、息が戻る。

フィビーが小さく言う。

「狐、痛い?」

フーは笑う。

「平気」

嘘だ。

でも嘘が必要だ。

オルガナが低く言う。

「俺が出ようか」

フーの目が鋭くなる。

「ダメだ。君が動けば、こっちの首輪が燃える」

「……」

「それに」

フーは静かに続けた。

「君がここで暴れたら、闘技場が喜ぶ。

黒いオーラが増える。

——あいつらの勝ちだ」

オルガナは拳を開いたり閉じたりする。

義手が、きしむ。

(……耐えるのも戦いだ)

その時。

外で、また歓声が爆ぜた。

そして、控室の扉の隙間から、わずかに冷たい風が入った。

砂漠の匂い。

フィビーがその匂いを吸い、目を閉じる。

「……外の風」

それは願いで、祈りだった。

オルガナは頷く。

「必ず、吸わせる」

フーが小さく笑う。

「約束ってやつ?」

「命令じゃない」

「いいね。そういうの、嫌いじゃない」

——コツ。

遠くで足音が止まった。

また誰かが巡回している。

時間が迫っている。

オルガナは心の中で数え始める。

(1)

(2)

(3)


ウェイトレスは、笑顔を捨てたまま歩いていた。

背筋を伸ばし、足音を抑え、廊下の影だけを辿る。

灯りは少ない。闘技場の裏は、歓声と逆に冷たい。

(怖い)

心臓がうるさい。

でも、止まれない。

彼女はレストランの匂いを思い出す。

オルガナが、あの三人の手を止めた瞬間。

自分の喉が鳴った瞬間。

“助かった”という感覚が、体に戻った瞬間。

(あの時、彼女は私を人として見てくれた)

だから今度は、私が。

——ガチャ。

階段の鉄扉に鍵を差し込む。

小さな音が、夜より大きく感じる。

扉の向こうは地下だった。

冷たい空気。湿った鉄の匂い。

足元に水が溜まり、靴が濡れる。

(ここ……)

保管庫。

奴隷の首輪。檻の鍵。契約札。

“人を物にする道具”が眠る場所。

彼女は震える手で、鍵束を握りしめた。

——コツ、コツ。

背後で足音。

近い。

(……来た)

ウェイトレスは息を止め、棚の陰に身を滑らせた。

兵士が二人、灯りを持って入ってくる。

「さっきの女、どこだ」

「知らん。奥様が苛ついてる。

あの旅の女が殺さないせいで、燃料が薄い」

「夫君も機嫌が悪いだろうな。義眼が——」

その言葉で、ウェイトレスの背中が冷えた。

(義眼……闇球)

噂は本当だ。

兵士が棚を叩く。

「鍵はどれだ」

「本鍵はここだ」

鍵束が鳴る。金属が擦れる音。

ウェイトレスは棚の隙間から見た。

——腰の鍵束。

そこに、細い一本。

他より古く、黒い筋が入っている。

(あれだ)

でも取りに行けない。

兵士が棚の前で立ち止まった。

「……誰かいる気がする」

灯りがこちらを向く。

ウェイトレスは喉が鳴りそうになるのを、歯で止めた。

その時だった。

奥の方で、カタン、と小さな音。

兵士が振り向く。

「……ネズミか?」

灯りがそちらへ動く。

(今)

ウェイトレスは影から滑り出た。

足音を消し、兵士の背後へ回る。

そして——鍵束へ手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、金属が冷たく刺さる。

(取れ)

取った。

だが、鍵束が揺れて音が鳴る。

——チリン。

兵士が振り向いた。

「誰だ!」

灯りがこちらへ走る。

ウェイトレスは鍵だけを抜き取り、残りは落とした。

——ジャラァン!

派手な音。

(しまった)

兵士が駆け寄る。

ウェイトレスは走った。

階段。扉。

背後で怒鳴り声。

「止まれ!」

——ブンッ!

何かが投げられ、壁に当たって火花が散った。

ウェイトレスは扉に飛びつき、鍵を回す。

——ガチャッ!

開いた。

体を滑り込ませ、扉を閉める。

——ドンッ!ドンッ!

叩く音。

「開けろ!」

ウェイトレスは震える手で鍵を抜き、胸に押し当てた。

(……取れた)

(私が、取った)

その瞬間、涙が溢れそうになった。

でも泣かない。

泣いてる暇はない。

——コツ、コツ!

必死に走る。

控室へ。

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