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蝶の鍵と黒霧の王女  作者: 髙橋彼方
第二章『エマトブルバシア』
10/22

エマトブルバシア7

試合が終わった。

どう終わったかは、観客の記憶の中で都合よく歪む。

重要なのは、闘技場の“流れ”が一瞬だけ乱れたこと。

そして、その乱れを——誰かが見ていたこと。

控室。

鉄臭さの中へ戻ると、フーは壁に手をついた。

笑顔が消える。

——ピリッ。

首輪が赤く光り、遅れて痛みが刺さる。

「……くそ」

声が低い。

怒りが、やっと外に出る。

フィビーは黙って座り込んだ。

小さな手で首輪を押さえている。

痛みは来ない。来るのはフーだけ。

それが余計に残酷だ。

オルガナが近づく。

「……大丈夫か」

フーは顔を上げない。

「大丈夫に見える?」

短い返事。刺さる棘。

でも次の言葉は、棘じゃなかった。

「……ありがとな」

小さすぎる声。

「君が“殺さない”って選んだせいで、こっちは死にかけた」

「……悪い」

「違う」

フーが首を振る。

「君が悪いんじゃない。

悪いのは——この町だ」

沈黙。

フィビーが、ぽつりと言う。

「……狐は、優しい」

フーが一瞬だけ固まる。

「違う。俺は優しくない」

「優しい」

フィビーは言い切った。

「優しいから、痛い」

その言葉に、オルガナの胸が締まる。

フーが笑う。

今度の笑いは、薄いけど本物だった。

「……お前、口が毒だな」

フィビーは小さく首を傾げる。

「蛇だから」

——その会話だけで、二人が“家族”だと分かる。

オルガナは息を吐いた。

「檻を開ける方法は」

フーの目が、鋭くなる。

「鍵が要る。

この町の鍵は——人じゃなく“役割”が持ってる」

「役割?」

「ウェイトレス」

オルガナの目が見開く。

「……あの子か」

フーは頷いた。

「彼女は“出入りできる側”だ。

だからこそ、首輪の仕組みも見てる」

フィビーが小さく言う。

「……あの子、怖い顔してるけど、優しい」

オルガナは唇を噛む。

優しさが、餌になる街で。

優しさを持っている者は、全員が狙われる。

「……動けるのか」

フーは首輪を指で弾いた。

——カン。

「俺が逆らえば痛みが走る。

でも、“逆らってないフリ”ならできる」

「演技か」

「そう。曲芸師の得意技だ」

フーは、ようやくオルガナを見る。

「君も得意だろ。

優しい顔で、剣を握るの」

オルガナは言い返せない。

フーが続ける。

「今夜、ウェイトレスが動けば——檻は開く」

フィビーが、オルガナを見た。

「……お願い。私、外の風を吸いたい」

九歳の願いが、胸をえぐる。

オルガナは静かに頷いた。

「必ず、出す」

命令じゃない。

約束だ。

その約束の重さが、剣より重いことを知りながら。

控室の外で、歓声がまた爆ぜた。

闘技場は回り続ける。

でも——歯車が、ひとつ欠けた。

欠けた歯車は、連鎖する。

観客に紛れた偵察アンドロイドが、静かに立ち上がって消えた。

(伝える)

(この町は壊せる)

その小さな行動が、蝶の羽ばたきになる。


控室の空気は冷たかった。

鉄の匂い。血を洗った水の匂い。

壁の爪痕が、ここで何人が壊れたかを黙って語っている。

フィビーは床に座り込み、首輪に触れた。

触れた指が震えるのを、本人は隠そうともしない。

フーは壁に手をつき、息を吐いた。

「……くそ」

首輪が赤く点滅する。

——ピリッ。

遅れて痛みが刺さる。

オルガナはその光を見て、歯を噛んだ。

(今動けば、また誰かが死ぬ)

助けたい。

でも、焦った助けは、相手の望む“処刑”になる。

その時——

控室の外、通路の先でベルが鳴った。

『チリン』

一瞬、全員が息を止める。

次に聞こえたのは、足音だ。

——コツ、コツ、コツ。

軽い。速い。

逃げるような足音。

フーの耳がぴくりと動いた。

「……来る」

フィビーの瞳が細くなる。

扉の隙間から、影が差した。

そして、控室の扉がほんの僅かに開く。

——ギィ。

そこに立っていたのは、あのウェイトレスだった。

黒髪。褐色肌。

笑顔を作ると逆に怖く見える、あの子。

でも今は、笑っていない。

顔が青い。唇が震えている。

手の中で、何かを強く握りしめている。

「……来たのか」

オルガナが小さく言うと、ウェイトレスは頷いた。

「あなたに……助けられた」

声がかすれている。

震えている。

「だから、返す」

そう言って彼女は扉を閉めかけた。

——その瞬間。

通路の奥で、男の声。

「おい! どこ行った!」

足音が増える。

——ドタドタドタ。

ウェイトレスの顔から血の気が引いた。

「……見回り」

フーが低く言った。

「ここにいるのがバレたら、お前も終わる」

ウェイトレスは唇を噛み、首を横に振った。

「……終わってもいい」

その言葉が、小さく落ちる。

オルガナの胸が締まる。

(優しさが、連鎖してる)

ウェイトレスは手の中のものを見せた。

鉄の鍵束。

そして、細い一本。

「これが……檻の鍵」

フィビーが、ほんの少しだけ身を乗り出した。

「……外の風」

小さな願い。

ウェイトレスは頷きかけて、次の瞬間——固まった。

足音が、扉の前で止まった。

——コン、コン。

ノック。

「中、確認するぞ」

声が近い。

ウェイトレスの体が硬直する。

フーが、笑顔を作った。

さっきまでの“看板”の顔。

「はーい? 控室は今、掃除中でーす」

声色まで軽い。

演技が完璧すぎて、逆に怖い。

「掃除? こんな時間に?」

「血、いっぱい飛びましたからねぇ。臭うと奥様に怒られる」

“奥様”——アプリス。

その言葉に、扉の向こうが少し黙った。

「……早く済ませろ」

足音が遠ざかる。

——コツ、コツ。

消えた。

控室の空気が、ようやく戻る。

ウェイトレスが崩れるように膝をつく。

「……怖かった」

オルガナが手を伸ばす。

「無理するな」

ウェイトレスは首を横に振った。

「無理じゃない。……選んだ」

その言葉が、胸に刺さった。

自由意志。

命令じゃなく、自分で選ぶ。

ウェイトレスは立ち上がり、フィビーの首輪を見た。

「鍵は……ここじゃない」

指で示す。

「檻の裏。地下の保管庫。

あそこに“本鍵”がある。これじゃ檻は開かない。首輪だけ——一瞬、緩む」

フーの目が鋭くなる。

「緩むだけで十分だ」

ウェイトレスは頷いた。

「でも時間は短い。見回りが戻る」

オルガナは言う。

「じゃあ俺が囮になる」

フーが即答する。

「ダメだ。君が動けば、奥様が喜ぶ」

ウェイトレスが震える声で言った。

「……私が行く」

オルガナとフーが同時に見る。

「あなたは目立つ。私は“店の人間”。通れる」

ウェイトレスは鍵束を握りしめた。

「あなたがあの時、止めてくれたから。

今度は私が止める番」

足音が戻る気配がする。

——遠いドタドタ。

ウェイトレスは息を呑み、扉へ向かった。

「……必ず戻る」

フィビーが小さく頷く。

「待つ」

扉が、再び開き——閉じた。

——ギィ、パタン。

残った控室に、鉄の匂いだけが残った。

オルガナは蝶の羽剣を握る。

(バタフライエフェクトだ)

(あの店の一瞬が、今ここで命を開けようとしてる)

フーが低く言う。

「……行ける」

オルガナが頷く。

「反乱の火種だな」

控室の隅で、フィビーが小さく息を吸った。

「……風」

その一言が、全員の背骨に火を灯した。

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