蝶の誕生1
◆プロローグ「石碑」
——ゴゴゴゴゴゴォ。
石の天井が唸り、聖域が揺れた。
砂が降る。灯火が震える。石工たちのノミの音が止まり、代わりに喉が鳴った。
「……外だ」
誰かが掠れた声を漏らすより早く、冷気が足元から這い上がる。
恐怖は音より速い。七人の石工が、いっせいに振り向いた。
石碑の前。
王冠。白い衣。
揺れの中で、ひとりの女が微笑んでいる。
祈りの笑みではない。
覚悟の形をした微笑みだ。
「大丈夫だ」
静かな声が、場の震えをわずかに収めた。
オルガナは、刻みかけの石碑を見下ろす。
そこには、戦争の始まりも、街の滅亡も、怪物化も、奪われた名も、ありのまま刻まれていた。
石工のひとりが震える指で問う。
「……聖女様。これ以上、真実を刻めば……」
オルガナは首を横に振った。
「ありのままでいい」
「ですが、これを見た者が、間違った考えを持ったら……」
「強制しない」
短く、言い切る。
「どう思うかは、読む者の自由だ。
答えを刻んだ瞬間、また誰かの意志を奪うことになる」
灯火がひとつ、ふっと消えた。
巨大な石の門の向こうから、遠い笑い声みたいなものが混じる。
オルガナは振り返らない。ただ袖を整え、門へ向き直った。
深く息を吸い、吐く。
「行ってくる」
石の門が軋み、闇が開いた。
——その向こうで、何かが笑った気がした。
◆第一章「蝶の誕生」
【二年前】
日差しは柔らかく、鳥が囀る。
川の土手で、オルガナは寝転び、空を眺めていた。
平和だ。穏やかだ。そんな言葉が、ここでは少しだけ嘘になる。
——ビュゥゥゥッ。
風が吹いた瞬間、右腕の古傷が疼いた。
ズキズキと、忘れたふりをしていた記憶を叩き起こすように。
「チッ……」
オルガナは舌打ちして、右腕を見つめる。
銀色に輝く無骨な義手。そこに歪んだ自分の顔が映っていた。
漆黒の女。
連れて行かれる幼い男の子。
手を伸ばしても届かず、地べたに蹲る自分。
——また、嫌なもん思い出しちまった。
オルガナは腰の直剣のグリップを左手で握りしめる。
そして、義手を太陽へ伸ばした。
もっと強くなる。
もう、誰も失わないために。
誓いを心の奥で固めた、その時。
——ザッ、ザッ、ザッ。
足音。
土手の上に、茶色いフードローブの男が現れた。
旅人——にしては、歩き方が慣れている。
オルガナは寝転んだまま目だけを細めた。
男は近づき、軽く顎を上げる。
「村長はどこだ?」
「あぁ。そこの村で一番でけぇ家だ」
オルガナが指差すと、男は頷いた。
「ありがとう……」
男が歩き出す。
オルガナは立ち上がり、直剣のグリップに義手を添えた。
「村長に何の用だ?」
男は立ち止まり、振り向く。
笑みが薄い。表情が読めない。
「帰ってきたことを報告しに行く」
「この村の出身か?」
「まぁな。アンタも?」
「いや、移住だ。ここで衛兵やってる」
男はオルガナを、下から上へと眺めた。
「衛兵は一人か?」
「他にもいる」
正確な人数は言わない。
男の笑みが少しだけ深くなる。
「なるほど。アンタたちのお陰で村が無事だったみたいだな」
村の方を見渡す瞳が、温度を持たない。
それでも男は、左手を差し出した。
「俺の名はイスルだ。村を守ってくれてありがとう」
握手。硬い。骨が痛いほど。
「俺も付いてっていいか?」
「分かった」
二人は土手を降り、村長の家へ向かった。
——ドンドン!
ノック。
すぐに足音が近づき、扉が開く。
「はーい」
現れたのは、白髭の老人——アルケ村長。
彼はイスルの顔を見た瞬間、目を見開いて固まった。
「……イスルか……」
イスルの瞳が潤む。
「ただいま……」
村長の膝が震えた。
そして次の瞬間、大声が村中へ響く。
「イスルが帰ってきたぞぉぉぉ!」
ざわめき。人が集まる。
信じられないという顔。泣く者。笑う者。
オルガナは、その中心で立ち尽くした。
——怪物に連れ去られた者が、生きて帰ってきた?
そんな話は、聞いたことがない。
もしかして。
もしかしたら——兄貴も。
希望が胸の奥で弾け、オルガナはイスルへ駆け寄った。
「なぁ! 連れ去られた後の話、聞かせてくれ!」
イスルは申し訳なさそうに目を伏せる。
「すみません。今は疲れていて……後にしてくれませんか?」
その敬語が、妙にひっかかった。
村長の孫が、村の衛兵に?
オルガナは一度息を吸って、頷いた。
「……分かった」
——夜。
村の中央広場にはテントがいくつも張られ、宴会の準備で活気が満ちた。
綺麗な服に着替えたイスルは、祝いの席へ向かっている。
オルガナが手を振る。
「おう! よく休めたか!」
イスルは微笑み、会釈。
「じゃあ飯食いながら話聞かせてくれ!」
オルガナが肩を回すと、イスルは一瞬だけ肩肘を張る。
ほんの一瞬。見逃せる程度の違和感。
円卓には、料理が次々運ばれてくる。
オルガナの前に鳥の丸焼きが置かれた瞬間、目が子どもみたいに輝いた。
「なあ! これ食っていいか!?」
「おい、はしたないぞ!」
師——マルコフの拳骨が落ちる。
「痛ってぇ……」
マルコフは紫色の衣を纏い、背には鍵のような形をした矢尻が付いた黄金の槍。
そして目が、いつもより少しだけ鋭い。
村長が豪快に笑う。
「良いんですよ! 腹が減るのは健康の証拠です!」
オルガナは満面の笑みで手を合わせた。
「いただきます!」
宴は笑いに満ちた。
だが、話題が“あの三年前”に触れた瞬間、空気が変わる。
「他の連れ去られた村の人たちは?」とマルコフが問う。
イスルは俯いた。
「……ほとんどが死んでしまいました。生き残りが居ても、化け物になってしまった。ここまで逃げて来られたのは俺だけです」
沈黙。
村長の目が濡れる。
「でも……あの方が居なかったら、俺も怪物になっていたでしょう」
オルガナが顔を上げる。
「あの方?」
イスルは、救いを語る子どものように笑った。
「ゼノという方が討伐軍を率いて、囚われていた私たちを解放してくださったのです!」
——バンッ。
オルガナは机に手をついて立ち上がった。
「そいつの名前は、ゼノ=ルシナ=テールだったか!?」
「は、はい。そのような名前だった筈です!」
義手がきしむほど握りしめる。喉が震える。
「……ゼノが、生きてる……」
師のマルコフが、オルガナの横顔を見つめる。
その目に宿るのは、喜びではなく、確かな警戒だった。
「今どこにいる!」
「アトロスク荒野の奥地の基地に……でも、明日の朝には移動すると」
「じゃあ早く合流しないと……!」
村長が割って入る。
「アトロスク荒野までの道は複雑ですじゃ。ゆかりのある者でないと辿り着けませぬ。しかも怪物が……」
イスルが村長を見つめ、静かに言った。
「俺が案内します」
オルガナは笑う。
マルコフは一瞬だけ迷い、頷いた。
「……頼む」




