第7章 未踏
最初に聞こえたのは、音だった。
低く、鈍い。
地面の奥を叩くような、規則性のない振動。
次に、空気が重くなる。
風が止まったわけじゃない。
押し戻されている。
「……来たね」
灯凛が、前を見たまま言った。
声はいつもと変わらない。
ただ、歩幅だけが、わずかに速くなる。
「さっき言ってた……
“もう少し、うるさいの”……?」
シアの喉が、からからに乾く。
「うん」
「さっきのより、でも私」
「考えるのが得意」
灯凛はそう言い切ったが、
安心材料にはならなかった。
建物の影が、ゆっくり歪む。
崩れているのではない。
避けている。
空間そのものが、
“進路”を譲っている。
「……あれ」
灯凛が、ほんの一瞬だけ足を止めた。
立ち止まる、ではない。
確認する、という動き。
「うーん……」
「やだな。あれ、追う気だ」
追う。
意味が、遅れて追いつく。
次の瞬間、
視線が、刺さった。
姿は見えない。
それでも、はっきりわかる。
見られている。
空気が、細かく震えた。
シアの足が、自然と後ずさる。
灯凛は振り返らない。
ただ手を伸ばし、シアの手首を掴んだ。
「離れないで」
「今の、逃げるやつ」
逃げる。
はじめて、
灯凛の口から明確な選択が出た。
地面が、盛り上がる。
押し出されてくる。
石でも、土でもない。
影の塊。
輪郭は定まらない。
腕の数が合わず、
足の位置が移動するたびに変わる。
「……なに……あれ……」
声が、震えた。
灯凛は、ちらりと横を見る。
「失敗作」
「なににも、なれなかったやつ」
一瞬、瞳が伏せられる。
「……たぶん、そういう分類」
「理由は、わからないけど」
影が、動く。
速い。
ノロマとは、まるで違う。
空気が裂け、
逃げ道だった路地が、音もなく潰れる。
言葉が、喉の奥で崩れた。
シアの息が乱れる。
「……やっぱ、来るよね」
灯凛は、舌打ちしない。
“かたまり”が、触れてきた。
薄かった床が、急に固くなる。
呼吸が、現実の重さを取り戻す。
「……うわ。まじめだ」
背中に、刃の圧。
「シア!」
はじめて、声を張る。
「走れる?」
「……は、はしれる……!」
灯凛が、先に踏み出す。
引かれるように、シアも走る。
背後で、影が地面を削る音。
速い。
しつこい。
先を読んでくる。
「……追いつか……」
息が切れる。
灯凛は、間を置かずに答えた。
「うん」
「追いつかれる」
否定しない。
「だから」
「一回だけ、止める」
その言葉と同時に、
灯凛の光翼が大きく開いた。
眩しくはない。
派手でもない。
ただ、はっきりとした圧。
影が、足を止める。
一瞬。
灯凛が、振り向く。
「起きてる」
「だから、気絶でいい」
確認ではない。
判断だった。
光翼が、影の中心をなぞる。
斬らない。
砕かない。
切り離す。
影は、音もなく崩れ落ちた。
倒れたのではない。
眠らされた。
静寂。
シアは、立ち尽くしたまま、
自分の呼吸だけを聞いていた。
「……い、いまの……」
灯凛は、すぐに振り返る。
「特別」
「ほんとは、使いたくない」
「……どうして……?」
少しだけ、考える。
「起きたまま壊すと」
「戻れなくなる感じがする」
説明は、それだけ。
遠くで、また振動。
一体じゃない。
「……まだ、いる……?」
灯凛は前を見たまま、頷く。
「うん」
「だから、次は使わない」
少しだけ、いつもの調子に戻る。
「ちゃんと、逃げよ」
ふたりは、また走り出す。
世界は、追ってくる。
けれど――
まだ、追いついてはいない。




