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第5章 未申

シアの足が、

わずかにもつれた。


胸の奥を、

針で撫でられたような感覚。


音にならないノイズが、

頭の奥で弾ける。


視界の端が、

ちらりと歪んだ。


「……また……」


声に出すより早く、

灯凛が、ぴたりと足を止めた。


「……あ。」


振り向かない。

立ち止まりもしない。


ただ、

ほんの一瞬だけ、

足の運びが柔らぐ。


「そっちの方角……」


灯凛の視線が、

街の外縁をなぞる。


建物の影が、

奇妙な角度で

折れ重なっている場所。


「ママたちがね。

 行っちゃダメって

 言ってた方。」


子どもが、

思い出話をするみたいな口調。


「そっち行くと、

 “こわーいの”に

 出くわすんだよって。」


その言葉と、

ほとんど同時だった。


シアの胸の奥で、

さっきとは別のノイズが走る。


——ザリ、と。


今度ははっきり、

方向を持った感覚。


(……そこ……)


理由は、わからない。


でも、

確かに“そこ”から

来ている。


灯凛が、

小さく頷いた。


「うん。

 同じ。」


「……え……?」


「シアの中で鳴ったのと、

 今、わたしが拾ってるの。」


灯凛は、

指先を宙に滑らせる。


何もない空間に、

見えない点を

結ぶみたいに。


「座標、

 だいたい合ってる。」


幼い声。

けれどその言葉は、

“測定結果”だった。


周囲を、

いくつもの影が

横切っていく。


二本脚で、

殻を鳴らしながら跳ねる

甲殻の人。


触手を束ね、

地面を撫でるように進む

柔らかい影。


殻の内側から、

音声だけを漏らしながら

転がる存在。


誰もが、

それぞれの速度で動き、

それぞれの形で生きている。


その中で。


灯凛とシアの周囲だけが、

わずかに

“ずれて”いた。


「ね。」


灯凛が、

確かめるように言う。


「シアも、

 聞こえたでしょ。

 さっきの。」


「……うん……」


喉が、

まだうまく動かない。


「ノイズじゃない。

 ちゃんと……

 来てる感じ……」


灯凛は、

少しだけ

口角を上げた。


「だよね。」


誇らしげでも、

自慢でもない。


ただ、

“合っている”ことを

確認した声。


「じゃあ、行こ。」


シアの手を引く。


「ママたちが

 ダメって言うとこ。

 だいたい、

 理由あるから。」


怖い、とは言わない。

危険、とも言わない。


灯凛は、

ただ事実を並べる。


背後で、

白銀の圧が、

再び空気を歪ませた。


けれど灯凛は、

もう振り返らなかった。


「追いつけないよ。

 あれ。」


独り言みたいに呟く。


「今の世界の速さ、

 もう、

 合ってないから。」


シアは、

その言葉の意味を

まだ理解できない。


けれど。


灯凛に引かれるまま歩くうちに、

胸の奥のノイズが、

少しずつ

“線”になっていくのを

感じていた。


恐怖じゃない。

混乱でもない。


——方向だ。


この瞬間、

シアは初めて気づく。


自分は、

逃げているのではない。


“呼ばれている”のだと。


灯凛は、

前を見たまま言った。


「だいじょうぶ。

 ちゃんと、

 着くから。」


どこへ、とは言わない。


でもその声は、

世界のどの保証よりも、

確かだった。


ふたりの足音が、

街の喧騒から、

静かに

外れていく。

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